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2015年11月5日木曜日

新益京(あらましのみやこ)はコスモス真っ盛り


北に耳成山を背景とした新益京の藤原宮大極殿跡
今は見渡す限りのコスモス畑に


 藤原京という名は正式の名称ではない。日本書紀には新益京(あらましのみやこ)と記述されている。同じく日本書紀にその宮殿を藤原宮と記していることから、後世、藤原京と呼びならわされるようになったという。

 690年持統天皇の詔により造営が始まり694年、飛鳥浄御原宮から遷都。我が国最初の条坊制を伴う唐風都城である。平城京や平安京と異なり、宮殿が都城の中心に位置する。また中国のそれと異なり、都城の周りには堀や城壁のような都市防護施設はなく、中心を走る朱雀大路も狭かったと言われる。当初は大和三山の内側にまとまった都城であると考えられていたが、後世の発掘調査で、この三山を都城の中に包摂する広大なもので、のちの造営された平城京や平安京よりも広かったことがわかっている。すなわち古代最大の京であった。

 一説に、我が国初の条坊制を伴う都城建設は太宰府が最初であるとする見解がある。663年の白村江の戦いに敗れた天智天皇が博多湾岸にあった屯倉(粕屋の屯倉)を現在の太宰府の位置に遷し、唐・新羅連合軍の倭国侵攻を想定して強固な防御都市(北に大野城、南に基肄城、博多湾側には水城を築き、その間に官衙を中心に都城)を設けた。しかし、条坊制が取り入れられた時期がいつなのかは明確になっていない。太宰府の起源についてはまだ解明されていない点が多く、太宰府が最初の条坊制都城であるという説は現在では異説となっている(九州王朝の存在の根拠にする説もある)。

 この時代は天武・持統天皇の律令国家体制の整備、天皇中心の中央集権的支配体制の確立を目指し、倭国から日本へ転換時期で、対外的にも倭国が(日本が)東アジアの大国であることを誇示しようとした時期。そのためには大王が即位するたびに飛鳥で転々と宮殿移すのではなく、唐風の壮大な都城を築く必要があった。いわば新生日本国のシンボル的首都建設事業であった。またいわゆる白鳳文化が花開いたのもこの京でのこと。薬師寺や大官大寺の諸仏がその代表である。

 藤原京は持統・文武・元明三代の京であった。しかし元明天皇は藤原京からの遷都の詔を発し、710年に平城京への遷都が実行された。たった16年で廃都となった都城というわけだ。なぜ?大極殿の火災や大官大寺の消失があったとも言われているが、大極殿の方は発掘の結果火災の痕跡は見つかっていない。一説に水利問題があったとか。特に下水処理問題。南の庶民の住居地区から、北の官衙、貴族の住居地区へと下水が流れる地形であった。このため汚物が宮殿地域に流れ込んでいたという。飛鳥川の下流に宮殿と官衙が設けられたという構造的問題だ。今風に考えるとなんともずさんな都市計画であるということになるが、当時は「国家の威厳」を対外的に知らせることの方が喫緊の課題であったのだろう。「国家の威信」とつくと、いつの時代においても何か大事なことが看過されて、のちに壮大な無駄使いのシンボルになる、というのは洋の東西、古今を問わず起こりうる理なのだろうか。

 おかげさまで、今は広大な史跡に、春は菜の花、夏は睡蓮、ホテイアオイ、キバナコスモス、秋はコスモスが美しく咲き誇る非日常な別世界が現出している。当時まさかそんな美しい史跡公園になることを見越した新都造営計画であったわけではあるまいが...

計画はこのようなものであったろう。
しかしたった16年で廃都となった。
人々が定住する間も無く放棄されてしまったわけだ。
藤原宮朱雀門跡


東には香具山


西には畝傍山


非日常的な景観が広がる


現在も発掘作業が続く
(大極殿跡)
(大極殿跡の基壇に立つ石碑)











2015年11月3日火曜日

Leica SL発表! 〜一眼レフへのリベンジ開始?〜

 



 ついにというか、ようやくというか、ライカが「プロ仕様のミラーレス」(ちょっと形容矛盾っぽいが)SL (Type 601)を発表。11月中旬以降発売だそうだ。その出で立ちはどう見てもデジイチ(デジタル一眼レフ)だが、ライカ社はあくまでも「ミラーレス」だと強調している。一眼レフではないぞ。ミラーがいらない「軽量な」プロカメラだぞと。よほどニコンやキャノンに一眼レフ機で敗れた過去が悔しくて、ようやく時代が巡ってきた、と小躍りしながら「ミラーレス!」と叫んでいるようだ。

 そもそもエルンスト・ライツ社が1954年に発表したの新製品Leica M3の精密なレンジファインダー(距離計連動光学ファインダー)に日本勢は驚愕し、とくにニコンはとてもこれには追いつけないとして、一眼レフ開発に転向したのは有名な話だ。その技術パラダイムシフトがその後のプロ用機材を一変させ、ニコンの一眼レフが市場を席巻し、一眼レフに追いつき追い越せなかった名門ライツ社の凋落の始まりとなった。それだけに一眼レフへの恨みは深い。関ヶ原の戦いで徳川に敗れた毛利、島津と同じ心境だろう。長い雌伏の時代を経てついに歴史的なリベンジの時がやってきた。

 しかし、ミラーレス市場は激戦区。しかも決してライカ社の開発した技術ではないし、むしろ、デジタルカメラ時代に入って一眼レフに代わる(あるいは補完する)カメラとして日本勢各社が競って開発したものだ。SONYなどがハイエンド機を次々と投入するなど先行プレーヤーがしのぎをけずっているので、後発で参入する以上、「ライカならでは」がないと勝てないだろう。その「ライカならでは」がこれまでのようにMシリーズなら独自色が出せるのだろうが。でないとかつてのライカ一眼レフカメラ(Rマウント)の「Leicaflex SL」シリーズと同じ運命をたどることになる。まさか、値段だけが「ライカならでは」じゃあないといいけど。

 ウェブサイトで見る限り「でかい」「重たい」ミラーレスのような。どう見てもニコンD810やキャノン5DIIIクラスの大きさだ。SONYα7シリーズとは比べ物にならない。レンズも新Tマウントズーム(STマウントと呼んでいる)が3本出る。これもとてもでかくて大変そう。中判Sシリーズよりは「小さい」そうな。既存のM/R/T/Sマウントレンズ群もアダプター経由で使えるらしいが、手振れ補正はSTマウントレンズのみとか。ミラーレスというと日本人の感覚では、小型軽量なカメラというイメージだが、ライカ社はそうは考えないようだ。プロ用機材として開発し、なんでもできるデジタル時代のフラッグシップにしようと考えているようだ。SONYもミラーレスを本格的な信頼できる機材へとブラッシュアップしようとしていて、ライカ社もそのコンセプトを追従しているように思える。しかし、違いは、SONYはあくまでも小型軽量を変えない(軽小短薄はSONYのお家芸、いや信仰だ)。

 一方、M Type240は今後どうなる?ライカの看板カメラだから製造をやめないだろうが、デジタルカメラ全盛となり、このままではそろそろレンジファインダー機の限界も見えてきているし、一挙にメインストリームを新シリーズSLへシフトするのだろうか?個人的にはMのハイブリッドビューファインダー(Fujifilm X-Proのような)付きのMaestro III搭載当たりが出ると面白いのだが。光学OVFにデジタルEVFを組み込んだハイブリッドビューファインダーなどは、本来ならばライカ社が開発してしかるべきだったのではないかと思うが、実際には富士フィルムに先を越されてしまった。Mのレンズ資産こそクラウンジュエルなのだから、それを生かしてこそライカだと思うと残念だ。

 ライカ教の御神体はあくまでレジェンダリーMだが、SLは新たな実用デジタルカメラとしてもう一本の柱を立てようというのだろう。そして新しいズーム、AFレンズシリーズをラインアップしようという考えなのだろう。これまで2006年のM8に始まり、かなりデジタル化技術のキャッチアップで苦労してきたライカ社だが、パナソニックとの協業の成果もこれあり、ようやくLeicaQでかなりデジタルカメラとしての完成度が上がった。だから期待してる。ただ、普通じゃ嫌ですよ、ライカなんですから。新たなレジェンドを作り出してもらいたいものだ。

 (追記)
 エントリーレベルミラーレスと位置付けられているLeicaTのファームウェアーがver.1.410にアップグレードされた。これまでTはそのポルシェデザインチームとのコラボレーションによる斬新なデザインと、タッチスクリーンを生かした革新的なユーザインターフェースを導入するなど、新しい軽量ミラーレスシリーズの登場でファンを大いに興奮させた。しかし実機を手にしてフィールドへ出てみると、起動の遅さ、AFの遅さ、せっかくのユーザインターフェースもレスポンスが悪く、サクサク感がない、など、全般にパワー不足のスローなカメラだったということでがっかりしたファンが多い。これならもっと価格が安くて高性能な日本製の方が良かった、と。「ポルシェのボディーにポロのエンジン」状態であった。

 今回のファームウェアーでは以下の点が改善されたという。
1)起動時間の大幅向上(ついでにM Type 240の起動時間も改善してほしい!)
2)AF速度の大幅アップ(2倍?)。
3)タッチスクリーン操作のレスポンス向上(3倍?)。
4)新SLレンズ対応
5)その他のバグ修正。

 なるほど、評判の悪かった点に手が加えられ確かにレスポンスは改善された。一見別物になった感もする。これなら使える。しかし、嫌味な言い方で申し訳ないがこれで「普通になった」に過ぎない。SLがこのTマウントを採用することとなった(新たにLマウントと称す。これまでのTはTLマウントと称するそうだ)のに合わせてアップグレードしたのだろうか?しかしなぜ最初からこれくらいの性能を保証できなかったのか疑問は残る。そうすれば中古ショップに在庫の山はできなかったのではないか。ライカといえどファンの目は厳しい。特にエントリークラスならなおさらだ。







(掲載の写真はライカ社ウェブサイトから引用)




 (その後)
 11月6日、日本でもローンチイベントが行われた。これには行けなかったが、11日から各ライカショップで実機展示が始まったので触りに行ってきた。その感想。

 まず、ミラーレスのイメージで不用意に手に取ると手首を捻挫(!?)する。やはりでかくて重い。しかしボディーは思いの外薄く、グリップは思いの外厚いのでホールドは良い感じだ。手にした質感は非常に良い。アルミ削り出しボディーはソリッドで信頼感が伝わってくる。やはり何と言ってもレンズ(24-90mm標準ズーム)が大きくて重い。MやRレンズ装着すると軽快で取り回しが良いのだが。ニコンの標準ズームより一回り大きく長い。望遠端が90mmまで伸びたのは嬉しいが、その分大きくなったのだろう(f.2.8通しにしていたらさらにでかくなっただろう)。しかし、ボディーに装着したバランスは悪くない。実は本格的に撮影する気ならそれなりの重さとバランスと質感が必要だと、普段から自分自身言っていたことを思い起こした。「ミラーレス」という言葉に惑わされてはならない。感覚的にはプロ仕様の「デジイチ」(ライカは絶対に一眼レフではないと言い張るし、確かにミラーレスなのだが)カメラであると捉えるべき作りになっている。以下に幾つか気づいた点を書き出してみた。

1)EVFファインダーは明るくて視野率も高くて見やすい。これが売りのようだ。
2)ボタン操作はこれまでのニコンやキャノンのそれとはかなり異なり、慣れが必要。よく使うISO,WB,ドライブモード、露出補正はボタン割付しておく必要がある。
3)相変わらず露出補正(私のこだわり)のプライオリティーが低く、メニューから呼び出しておいてボタン割付できるが、いざ使う段になると「ボタン長押し」しないと機能しない。これまでどおりマニュアル撮影優先思想なのだろう。AEになっても妙なところにライカはこだわる癖がある(Mも後になってファームウェアーで改善された)。
4)MレンズやRレンズ使用(アダプター経由で)は快適に行える。むしろこの方がバランスが良い感じだ。ただし手振れ防止は機能しない。
5)MFアシスト機能について、ピント部拡大は左下のボタンを押すとできるが、このボタン位置は如何なものか。左手でレンズ鏡胴部でフォーカシングしながら、左手で同時にボディー背面のボタンを押すのは至難の技。そもそもMのようにフォーカシングとともにオートでズームップするようにしてほしい。今後のファームウェアーで改善されることを期待する。
6)DNGで撮影した画像を液晶画面で再生し、拡大表示すると解像度がえらく悪いのはなぜ?JPGの場合は問題無いが。
7)SDカードスロットは二つ。一方はUHS-II対応。二枚目をバックアアップ用に指定することができるが、RAWとJPGに振り分けることはできないという。ショップの人に聞くとは「ニコンにはそんな機能があるんですか?」とビックリしていてビックリ!

全体的に連写はじめ、レスポンスが向上した。これならストレスなく使えそうだ。価格以外は... 機能もライカらしくなくテンコ盛りだ。AF合焦速度は早くなったが、条件によっては考え込むことがある... あと問題は写りだ。いよいよライカも新しいパラダイムを開いたようだ。おおいに期待したい。

その後:
早くもファムウェアーアップデート(ver.1~ver.1.2)
一番の操作性向上は、上記5)でコメントしたMF時のピント部拡大。ジョイスティックプッシュで拡大できるようになった。

先日ライカジャパンに、前述の使用上の改善要望(露出補正操作の簡易化、DNG再生時の拡大解像度の問題、SDカードスロットをDNG/JPGに分けること)をメールした。
その回答は、概ねポジティブなもの。同様のコメントが他ユーザからも寄せられているようだ。ドイツの開発部門へフィードバックするとのことであった。

その後第二弾:
2016年4月15日、ファームウェアーアップデート(ver.2)
ついに露出補正をダイレクトにダイアルでできるようになった。そして、DNGで撮った画像の拡大表示の解像度が改善された。他にも、AF速度の改善、ほかの修正が行われた。しかし、せっかく2つあるSDカードスロットの利用改善(DNGとJPGを分けて記録する)は入ってない。



2015年11月2日月曜日

平安京ここに始まる 〜東山将軍塚からの眺め〜

東山山頂の「将軍塚」からは京都市内を一望できる。
正面の緑地は京都御苑(御所)。
平安京の大極殿はこの画面の左奥に位置していたが現存しない


 平城京、長岡京からの遷都を考えていた桓武天皇は、側近の和気清麻呂の案内で山背国葛野(かどの)の地、東山の山頂に登り立った。山に囲まれ、豊かな川の流れに恵まれ、風水にかなった地形をみて、ここをあらたな都に決めたという。そして新都鎮護の祈りを込めて、将軍の像を造らせ、それに甲冑をまとわせて埋めたのが将軍塚だといわれている。793年のことだ。そしてわずか1年後の794年には平安遷都がなる。以来、この地は明治の東京奠都までの1000年の都となる。

 今でもここは京都を一望に見渡せる絶好のビューポイントだ。特に清澄な秋の空の下、とても視界が効いてよく見渡すことができる。ここには青蓮院の離れ青龍殿があり、大日如来を祀る大日堂があった。木造のテラスが去年新設され、新たな京都の観光名所として脚光をあびることとなった。ここには青不動(国宝)が安置されている。

 たしかにこうして見渡すと京都は四神相応にかなっている。日本における風水、四神相応は中国における地形の比定とは異なっているそうだが、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎であることは同様で、平安京について、東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池(今は干拓で消滅してしまったが)、北玄武を船岡山にあてる。もっとも比定地には諸説あるようだ。

 京都は日本の首都としては地の利を得たロケーションと言える。東西南北に延びる街道、淀川を経て瀬戸内に延びる水運、琵琶湖の水運など都が置かれる位置としては最適だった。このころはいまだ現在の東北地方は蝦夷の地とされ、朝廷の支配が安定している領域は今よりも日本列島のずっと西に偏っていたのでまさに日本の中心であった。西南の雄藩中心の明治新政府が、徳川幕藩体制の拠点であった江戸の制圧、それを最後まで支えた東北諸藩地域の統治、さらには北海道の開拓などで、都を京都から江戸、すなわち東の京都、東京に移したことで日本の中心がより東寄りになったのは比較的新しいことである。

 京都盆地は、以前の都があった奈良盆地とはどのように異なるのか。奈良盆地は西は河内、難波をへて瀬戸内海に開けて良いが、東へは山に阻まれて都合が悪い。ヤマト王権、さらには朝廷が東国への支配を強め、物流、情報流を活発にするにはやはり遷都が必要であった。飛鳥、奈良からさらに京都へと北に向かって都を移していった。この南北一直線上の遷都にも合理的意味があるのだろう。その地の利ゆえに京都はその後1000年もの間日本の首都として続いたわけだ。

 一方、奈良や飛鳥がシルクロードの東端として、積極的に都の国際化を図り、渡来人コミュニティーが出来ていた国際都市であったのと異なり、京都は国内の物流・情報流の中心としての性格がより濃くなった。すなわち飛鳥倭国時代は蘇我氏のような渡来人コミュニティーを権力基盤とした有力豪族が大王家と姻戚関係を結びつつ、大陸との文化・経済交流を国の安全保障と国富発展の基礎としてきた。しかし白村江の敗戦以降は国内統治体制整備と防衛に邁進し、都には比較的安定した国内の政治経済の中心としての役割が求められるようになる。それでも藤原京、平城京は対外関係を意識した壮大な中国風都城の建設を企図したものであったが、平安京は、菅原道眞の建議で遣唐使が廃止され、国風文化が盛んになる平安時代の象徴的な都であった。ある意味で日本がよりドメスティックで内向きになり平和な時代(平安時代)が続いた。のちの鎖国体制の江戸時代はその再来なのであろう。勿論唐物に対する憧れはあったにしろ、国際関係は、もっぱら都から遠い筑紫の太宰府、鴻臚館を中心とし、むしろ都には外国船を近づけない方策が取られた。これを破ろうとしたのは武家の棟梁平清盛で、瀬戸内海を国際航路として整備し、都に近い福原に国際貿易港を作り、さらには遷都すら企画した。しかし、こうしたグローバル派は歴史上は少数派である。平安遷都は国内と国際を分離する、二元論で生きてゆく時代の始まりであった。

 しかし、そのような遷都の歴史的合理性・意味づけが論じられるのはのちの時代のことである。実はそもそも平安遷都の理由は諸説ありはっきりしない。魑魅魍魎の跋扈する奈良を嫌がり、王位継承争いで非業の死を遂げた早良親王の怨霊から逃避、平城京の貴族政治勢力からの逃避、などなど。必ずしも日本という国家の行く末を展望した政治経済合理性に基づく遷都決定ではなかったのかもしれない。もっともこのころの陰陽道的世界観から見れば「怨霊封じ」は立派な合理的理由だったに違いない。一方で平城京が奈良仏教の拠点となり、仏教勢力が力を持ち始め、孝謙天皇の治世で起こった道鏡事件や、仏教勢力の政治への介入に嫌気がさしたためともいう。桓武天皇の信任厚かった和気清麻呂の遷都進言が大きかった。和気清麻呂といえば宇佐八幡宮のご神託で、道鏡を排して皇統を守った忠臣として語られる。またこの地は渡来系氏族である秦氏の本貫地で、その財力を頼ったとも言われている。太秦の広隆寺はもともとこの地に勢力を持っていた秦氏の氏寺。

 そのため奈良にあった寺の平安京移転を固く禁じた。聖武天皇創建の鎮護国家の寺、東大寺も、西大寺も、藤原京から移転してきた天武・持統天皇の薬師寺、鑑真和上の唐招提寺も移転していない。そして藤原氏の氏寺、興福寺も移転せず。こうして仏教勢力や有力貴族である藤原氏を避けて遷都されたはずなのだが、結果は衆知の通り、平安京は藤原摂関政治の都となり、比叡山や浄土宗、阿弥陀信仰など、新しい仏教勢力の拠点となってゆく(京都にはお寺さんがぎょうさんに居てはりますよね)。皮肉なものだ。さらに平安末期にはその藤原摂関政治や、後白河上皇の院政を脅かす政治勢力、南都北嶺すなわち奈良の興福寺、比叡山延暦寺の僧兵たちが春日大社や日枝神社の神輿を担ぎ出して跳梁跋扈する都となる。やがて朝廷や公家の番兵であった武士が勢力を握り、平氏や源氏の武家政権が誕生する。さらにその後の武家勢力の争いの場として応仁の乱、それに端を発する戦国の世に突入し都が荒廃してゆく。都が活気を取り戻すのは、皮肉にも武家政権の織豊政権から徳川政権になってからである。統治権力の都としてではなく、統治権威のおわします都としてであるが。



将軍塚

鴨川と下鴨神社
手前は京都大学

平安神宮の大鳥居



金戒光明寺

真如堂

青龍殿とガラスの茶室

南禅寺

青龍殿に新設されたウッドテラス



ここからの眺めは絶品
東寺五重塔、京都駅、京都タワー

夕日が二人を照らす

(撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)

2015年10月24日土曜日

下田は今日も晴れだった。〜フォトジェニックな街で情景ハンティングに苦心する〜

  最近、なぜか下田の街の雰囲気にハマっている。この街は何度も来ているが来るたびに新たな発見があり、そして新たな謎が湧いてくる。何度も同じところを徘徊しているのだが。今回は熱川の別宅から毎日通ってしまった。片道910円という高額な運賃を払って... しかしこの街はフォトジェニックだ。なぜ? 長い時間経過の中で多層な歴史が街の情景に潜んでいるからだろうか。市は観光地として一生懸命売り出しているのだが、黒船ペリーとハリス、伊豆の踊り子、海水浴に金目鯛くらいで、ブームになるほどの成果は出ていないように思う。しかし皮肉にも、妙に観光地ずれしていないところがいい。最近は伊豆ジオパークをアピールしている。そういう視点で海岸線や火山の痕跡などの自然景観を点検してみると、これはこれは素晴らしい宝の宝庫であることに気づく。その話は別の機会に。

しかし、下田の写真写りの良い景観を観光写真的でなく切り取るのは、相変わらず困難な作業だ。エバレット・ブラウンも了仙寺でのペリーとの子孫等対談で、歴史の情景を心に刻みそれを写真に表現する話をしていた。それで湿板写真機なのだ。時空を超えた情感を写し取る。これは下田に限った話ではない。尊敬する大和路写真のマエストロ入江泰吉先生が、その土地の歴史と情感を写真という現代的なテクノロジーで表現することの難しさを語っている。

伊豆は必ずしもいつも歴史の表舞台であったわけではない。むしろその後ろで色々な物語が紡がれた土地である。古代において、伊豆は伊豆大島を含み流刑の地。奈良の都や京の都から遠く離れた辺境の地、政治的に敗者となった人々が無念の涙を飲みつつ配流となった土地。そのせいか、下田の人は、その言葉使い、振る舞いにどこか雅な香りが付きまとう。下田の街の北のはずれに稲梓という伊豆急線の駅がある。ここから谷伝いに下田街道沿いに進むと箕作という集落がある。ここはその昔、壬申の乱の後、大津の皇子のが謀反の嫌疑で死に追いやられた時、その舎人として仕えていたトキの道ツクリが流された地と言われている。小高いところに箕作八幡神社がある。鬱蒼とした茂みの中に人知れず佇む社だが、ここがトキの道ツクリの配所跡といわれている。

平安末期、源平の争いの時代には頼朝の源氏再興の旗揚げ地となる。もともと伊豆、相模は平氏系豪族が多いの土地である。頼朝の後ろ盾となった北条氏だって元は平氏の家系だ。頼朝は都から流されて平氏の有力豪族北条氏に流人として預けられたわけだから。北条政子と頼朝が恋仲にならなければ後の鎌倉北条執権政治などなかったかもしれない。

徳川家康が江戸幕府を開き江戸時代になると、江戸湾に出入りする廻船を検問する幕府直轄の陣屋が下田に置かれ、海運と江戸防衛の重要拠点となる。大航海時代、それへの対抗としての鎖国時代には下田奉行が置かれ江戸防衛拠点となる。そして幕末には、太平洋に突き出した港という地の利を見込まれて、また一方で江戸から離れた江戸湾外の地であるという国防上の理由から外国船の薪炭補給基地として開港する。一時幕府によって下田に反射炉が建設された。しかしハリスの米国公使館が置かれたことで、機密防衛のため取り壊されて韮山に移されたとか。下田は江戸幕藩体制の脇を固める立ち位置を与えられ歴史に名を残した。しかし、その後横浜、神戸が開港され、米国公使館も移転すると、下田はその役割を終えて静かな街に帰って行く。戦時中は海軍航空隊の基地ができ、空襲も受けるが、壊滅的な被害を被ることもなく戦後を迎えた。

伊豆半島のほぼ南端のいわば辺境の地にありながら、その時代時代で、歴史の裏舞台、表舞台として様々な役割を担わされた土地の記憶が今でも色濃く残る。しかし、今回も「歴史の情景」をデジタルカメラで表現することはできなかった。せいぜい観光写真を撮り溜めただけだ。真をありのまま写し取る「技」を極めた下岡蓮杖先生の写真の時代から、その真の後ろに見え隠れする情景を写し取る「芸」を極めた入江泰吉先生の写真の時代への進化を体得するのはなかなか至難の技だ。



伊豆独特の海鼠塀の商家


今は観光地として人気のペリーロード沿いの川や町並み


了仙寺への道
ペリーが下田条約締結のため歩いた道


下田の街


下田港
ペリーもハリスも伊豆の踊子もこの岸壁に立った


伊豆石で出来た蔵
手前は洋館(小さなリストランテ)






土藤酒店
江戸時代から続く老舗










2015年10月6日火曜日

Leica M Type240 2年目の使用レポート

 フルサイズCMOSセンサーのLeica M Type 240。2013年の3月の発売から2年半経った。日本製のカメラならとっくにその後継機種が出ているような時間経過だが、そこはライカ。2年なんて商品ライフサイクルは短か過ぎる。銀塩フィルム時代のM6なんぞは1984年から20年以上も続いた。デジタルカメラでも手になじむ道具になってくれるには、それなりの熟成時間が必要な気がしている。しょっちゅう壊れては買い換える家電製品、消費財ではないのだ。

 しかしデジタルカメラの技術進歩は文字通り日進月歩。なので2年もフラッグシップモデルに新製品が出ないと時代遅れになってしまう恐れはないのか? 他社製品との比較優位が失われてしまうのではないか? 最初のデジタルMであるM8は2006年、次のフルサイズCCDセンサー搭載のM9は2009年のリリース。かなりデジタルカメラとしては未完成で、いろんなバグや課題を抱えていたM8,M9でさえ3〜4年製造し続けていた。ライカは買い替えさせるために次々新製品を出したりしないのだ。開発リソースに限りもあるのだろうが、基本的に商品ライフサイクルは長い。もちろん多少のバグ修正やキャッチアップはファームウエアーアップで対応しているし、Mシリーズ以外のノンフラッグシップであるX、Tシリーズや、パナソニックからのOEMのD-LUXなどで、新しいデジカメ製造技術には追いついていますよ、と言われそうだ。今年出したフルサイズセンサー固定レンズのQなど、なかなか機能てんこ盛りで最先端をいっているデジカメだし、そこで培った技術を徐々にフラッグシップ機で生かしていきますから「心配ご無用!」ご期待ください、って。

 しかし、ライカの真髄はそんなところにあるのではない。便利な機能なぞ無くてもお構い無しの基本性能一本槍の製品哲学がライカなのだ。流行や最先端技術を追わない。わざわざ「最先端は必ず古くなる」と開発者がコメントするくらいだ。だから追いかけず、技術的に枯れて成熟してから取り入れる。それは日本人のセンスから見るとかなり危険な道に見えるが、彼らにとってはそれが確実に市場を押さえる方法なのだ。アンフレンドリーなユーザーインターフェース。市場や顧客に媚びないツッケンドンな面構え。不便なカメラなのにビックリするようなプライスタグ。材料や職人の人件費など製造コストが高いのだからしようがないだろう、とコストパフォーマンスなど考えてみたことないと言わんばかりだ。思わず「経済合理性ってどんなんだっけ?」と考えてしまうほど、我が道を行くライカ流。日本のカメラメーカーが追いかけてきたコスト削減競争、合理性や高付加価値とはかなり異なる。確かに価格競争の行き着く先は、製品のコモディティー化と低利益化。皮肉にもものづくりの自滅への道をまっしぐらに進んで行く。モノ造りの成熟度に応じた事業モデルの転換の方向性を示唆しているのかもしれない。

 最近話題になっているドイツ製造業が提唱するIndustries 4.0も、日本人の経済合理性の視点ではなく、ドイツ人的視点からもう一度よくその意味するところを評価してみる必要があるかもしれない。ライカ自体はドイツの製造業の中でもやや特異な存在かもしれないが、一生モノを作り、長く使って貰う過程で、サービスや経験という付加価値を提供し続ける伝統はドイツ独特のものだ。

 私のM Type240、2年半使ってみてこれまで故障無し(M8、M9の時と大違いだ)。デジタルカメラとしての完成度、信頼感は、以前のM8やM9に比べると格段に進歩したが、それでも使い勝手の悪さはやはり。電源入れてからの起動の遅さ、相変わらずプロセッサーの処理速度、バッファーメモリーサイズの限界からか全てにレスポンスが遅い。ライブビューにするとシャッターテンポが格段に悪くなる。しかし、いつのまにかそのライカに飼いならされている自分に気づく。撮影結果が良ければ全てが許されるってことだ。

 経年劣化を感じるのは、付属していたバッテリーが寿命なのか?このごろ「Check battery age」のメッセージが出るようになったくらい。少々のことでは傷も付かない堅牢なプラックペイント塗装も、最近は角が擦れて中の真鍮色が見え始めるようになった。昔、ライカコレクターの間で、質の悪い黒塗装が剥がれてボロボロになったM2やM3,M4のブラックボディーを愛で、高い中古価格で取引する「黒皮病患者」同盟などという自虐的遊びが流行っていたことがあった。最近でも、わざわざ新品のブラックM-Pと黒鏡胴Summilux 50mmの角をこすって真鍮地を出して「使い込み感」を出し、「なんたらバージョン」と称して通常の倍以上の「限定」価格で売り出したり、ライカ一流の「高付加価値プレミアム戦略」は健在だ。ライカ病患者の心理をついたお得意のライカ商法だ。そんな金かけなくてもしっかり使い込めば剥げてくるんだけどね、普通のライカで。まあ、こんなことで遊ぶのがライカマニアだが、一方でそんな皮相な熱狂ぶりとは別に、その奥には一生もののモノ作りの深い世界があることに気づき始めた気もする。



Leica M Type240 + Summilux 50mm f.1.4 ASPH.
お約束の定番セット。




堅牢でずっしりした質感。軍艦部や底板は真鍮製。
2年半の使用でブラックペイントが少しずつ剥がれて中から真鍮色が覗くようになった。
基本性能がしっかりしていて、余分なギミックは苦手のようだ。

 ライカMの撮影機材としてのプレミア感は基本的には、破綻のないMレンズの性格、性能にディペンドしている。最新のMレンズなぞ、多少個性が無くなったとも言われるが、その高性能で堅牢な作りはプライスタグ相応の価値を感じる。隅々までしっかりと結像し、美しいボケとピントの対比(木村伊兵衛のいう「デッコマ、ヒッコマ」)。高い解像度。それでいてカリカリではない独特の階調の豊かさ。黒いシャドウ部分でも潰れていない画像情報量の多さ。よく補正された収差(ボディー内でプログラム補正するのではなく光学的に)。また長年作り続けられてきたオールドレンズ群は、いまでも色あせることなく現役で使える。また古いレンズの収差やフレアーやコントラストの弱さが、個性的で独特の表現手段になるなど、こうしたレンズ資産がまさにライカエコシステムのクラウンジュエルなのだ。ボディーはフィルムカメラであれデジタルカメラであれ、そうしたレンズ性能と個性を十分に引き出すことだけに集中する設計となっている。余分なことをしないことが高付加価値になっている。

 したがって、RAW/DNGで撮って、イメージ通りにLightroomで仕上げるという作業を経て、さらにプリント作業で完成させる。そのような撮影の後工程のワークフローによる作品作りを可能ならしめるカメラだ。あるいはそうした表現者の心にあるイメージを自分自身で引き出すことを可能ならしめることを旨とする。その際、基本となる撮影画像自体が、そうした後工程の作業に耐えうる品質でなければならない。最高の素材を叩き出すこと。そしてカメラが余計なことをしないこと。それがライカの基本であるようだ。押せば誰でもキレイに撮れる、を求めるなら他へ行くべきだろう。

 最近、写真撮りに行く時は、気がつくといつもライカを持ち出している。ニコンなら一台でズームレンズ付けてなんでもキレイに撮れるのに。その便利さとニコンならではの信頼感はなにものにも代えがたいが、なぜ厄介なライカを持ち出すようになったのだろう。以下にM Type240を入手した時のブログを掲載した。あの時の私と、そんなことに気づき始めた今とでは、ライカと共に生きるということの意味が大きく変わりつつあることを読み取っていただけるだろう。残念ながら腕はあまり上がっていないが... ライカ使いになるためにはそれなりの時間が必要だ。日暮れて道遠し...

2013年3月に発売となった時に書いたブログ。 



作例:

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.
Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH




2015年9月27日日曜日

鍋島藩秘窯の里 伊万里大川内山を再訪

今回の伊万里大川内山探訪は雨模様であった。前回は訪れたのは3年前の8月。夏の日差しが眩しい暑い一日であったが、むしろこうした陰鬱な天候の方が秘窯の里にふさわしいのかもしれない。しかし里山は秋の色。田んぼの稲穂は黄金色のこうべを垂れ、コスモスが一面に咲き誇り、歴史の里を彩っている。

鍋島藩窯は、江戸時代には門外不出の御用窯で、朝廷や将軍家、大名家、海外の王侯貴族向けの、いわば鍋島家権威財生産を担った。その製品は年間限られた数の生産しかしない「限定品」であった。しかも有田や波佐見などと異なり、その製品が一般市場に出回ることは少なく、したがって江戸時代の色鍋島や鍋島青磁、染付など、古伊万里にカテゴライズされているものは、現在では骨董美術品的な扱いとなっている。

明治の廃藩置県以降、藩窯は廃止されたがその鍋島窯の伝統技法は引き継がれ、現在の伊万里大川内山には、30軒ほど窯元がありそれぞれの個性を競っている。なかには現代の生活にも受け入れられやすいデザインの作品を出している窯元もある。しかし御用窯のデザインと御用窯だけに許された染付など、一定のボトムラインの上にそれぞれの特色を出した作品を生み出している。有田の香蘭社や深川製磁のような主に海外市場を狙って明治期に設立された日本を代表する有名な大手ブランドや、柿右衛門、今右衛門などのように世襲ブランドを守っている窯元などと異なり、大掛かりにブランドエクイティーを押し出していない窯元が多く、それだけ奥も深くて、自分の好みの窯元を探して巡る楽しみがある。

そしてその集落の佇まいは密やかで美しい。街並みを見て歩くだけでも楽しい。そういった時の流れのなかで秘められた「美」が熟成し、芳醇な香りをあちこちに漂わせている。しかし、一方、その歴史と伝統を担ってきた無名の陶工たちの無縁仏群が、この里のもう一つの異空間を形成していることにも気付かされる。


以前訪ねた時のブログです。


時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...





鍋島藩の秘窯は切り立った大屏風風奇岩に囲まれた谷間にあった。
中国の景徳鎮の官窯を模して開いた。


度肝を抜かれるのがこの村の入り口に架かる橋

「トンバイ塀」
窯の耐火煉瓦を積み重ねたもの

橋にも河岸にも陶器やトンバイが埋め込まれている


伝統の登り窯
現在はほとんどがガス窯で焼くそうだが、
陶工の伝統技法を伝承するために年一回、この登り窯で焼成するという。


それぞれの窯元のギャラリーを見て歩くのは楽しい。




里はまもなく稲の刈り取りシーズンへ

コスモスが村を彩る

川の左手に幾多の陶工達の墓が連なる
かつてここは閉ざされた異空間であった。


以前訪ねた時のブログです。
伊万里焼、有田焼、古伊万里、鍋島、などの違いを知りたい方はこちら(↓)をご覧ください。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...