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2017年4月11日火曜日

桜咲く(2) 〜太宰府の桜〜


 太宰府を連想させる花といえば、なんといっても梅だろう。菅原道眞公ゆかりの梅。筑紫路に春一番を告げる天満宮の「飛梅」。菅公を慕ってみやこから飛んで来たという白梅だ。「東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」だ。そして天満宮参道に並ぶ多くの茶屋や、天満宮裏手の梅園に昔からある文人墨客に人気の「お石茶屋」の「梅ヶ枝餅」。焼きたての餅をお茶とともに縁台で食す。もちろん梅の香を聴きながら... この昔ながらのイートインスタイルが太宰府天満宮参詣の風情を醸し出す。もっとも「お石茶屋」は伝説の美人お石さんのほうが人気だったそうだが。

 とにかく「梅」「梅」「梅」だ。たしかに天満宮境内やその梅園は梅の時期には多くの人出で賑わう。奈良時代から平安時代にかけて、万葉集や、古今和歌集などで歌われる花といえば「梅」であった。中国から伝わった梅とそれにまつわる詩歌、庭園建築、芸能、味覚。ここ「遠の朝廷」太宰府が梅に彩られる殷賑な西国の都であることはなにも不思議ではない。桜が日本人に愛でられるようになるのは後世のことだという。「花は桜木、人は武士」。特に武家全盛の時代に、桜花の潔い散り方が武士道精神を象徴しているとして愛でられるようになったという。

 太宰府散策に立ち返ろう。「梅」というレッテルがしっかり貼り付けられている太宰府ではあるが、意外にも太宰府は桜の名所でもある。福岡で桜の名所といえば、福岡城址、西公園、秋月城下町など、やはり武家文化にまつわる地域が有名だ。しかし、古代の「遠の朝廷」太宰府も桜が見事だ。特に都府楼跡(太宰府政庁跡)は礎石が並ぶ広大なスペースの周辺を桜並木が連なって、格好の花見の場所となっている。古代の遺跡と周囲を囲む山々。気持ちの良い空間だ。そのほかにも山肌を彩る山桜が、都府楼跡の背後にそびえる大野城(四王寺山)や里山を春めいた風景にしてくれている。四季折々に違った顔を持つ太宰府ではあるが、今回はいつもと少し異なる趣の「桜」太宰府を散策してみた。

 太宰府も、博多/福岡と共に、最近は訪日外国人、とりわけ中国、台湾、香港、韓国からの観光客がドッと押し寄せるようになった。太宰府観光といえば太宰府天満宮や九州国立博物館を訪れ、参道で梅が枝餅を食べ、お土産買って帰るパターン。ある統計によるとこのパターンの観光客の70%が中国語/韓国語圏からの観光客だそうだ。まあ、日本人観光客でも「太宰府に行ってきた」といえば天満宮で学業成就のお守りもらいに行ってきたことを言うほどだから、彼らにとって「安近短」海外ツアーの定番コースなのだろう。しかし、本当はそれではもったいない!実は、太宰府天満宮のあるところは旧太宰府都城の東北の郭外である。道真公の遺骸を埋葬した安楽寺天満宮を母体として天神信仰の聖地太宰府天満宮ができると、ここがその門前町として発展した。中世以降はは太宰府の中心はここに移り、現在も、西鉄太宰府駅を軸に太宰府市の中心になっている。しかし本来は太宰府といえば都府楼跡(太宰府政庁跡)を中心に朱雀大路を挟んで東西に広がる条坊制の都城をいう。また大野城と基肄城という防衛拠点を南北に配し、水城で周囲を防備したた要塞都市をいう。いまは鄙びた滅びの情景に満ち満ちた府庁/官衙、学業院や観世音寺/戒壇院を中心とした古代の都城跡こそ太宰府なのだ。太宰府天満宮からは西に離れているので、なかなか観光客はそこまで足を運ばない。西鉄の駅で言えば都府楼前か五条。最近は「まほろば号」というバスも運行されているが、歩いて回るのにちょうど良い歴史散策コースなのだが。ちょうど、平城京といえば平城宮趾が中心のはずだが、観光客は平城京の東の郭外にある東大寺や春日大社、興福寺に押しかける。広大な平城宮趾を見に西大寺まで電車に乗る人は少ない。ちなみに京都も、現在の京都御所は江戸時代に旧平安京の東に移動している。旧平安京の大極殿は、現在の二条城付近にあった。このように古代に建設された広大な条坊制の都城は、のちにその中心地が寂れると、どこも中心が東に移動している。これは単なる偶然なのだろうが、不思議な共通点と言える。

 この日も、桜が満開で華やぐ都府楼跡辺りは、家族連れの花見客以外は、観光客の姿はまばらであった。観世音寺も戒壇院も静謐の中にあった。静かで穏やかな里の風景である。ちょうど奈良公園ではなく、飛鳥の里のような情感溢れる佇まいである。それはそれで、この静けさをいつまでも守っていたい心情はありつつも、古代史「時空トラベラー」はもちろん天満宮だけでなく、必ずや都府楼跡や観世音寺を訪ねなければならない。中国や韓国の観光客もぜひ「東夷の倭国」が、かつて白村江の戦いに敗戦し、あなた方の遠い祖先の国、唐/新羅連合軍が列島に攻めてくるかもしれない、として構築したこの防衛都市を見に来て欲しい。その後、平和が訪れて中国王朝、朝鮮半島諸国との交易/文化交流の拠点として繁栄した「とおのみかど」を見に来て欲しい。日中韓の長い長い悠久の歴史を考える良い場所だと思うがどうだろうか。


参考:以前の大宰府に関するブログ

2010年2月19日のブログ:唐/新羅連合軍の侵攻に備える 〜大宰府大野城と水城構築〜

2014年8月6日のブログ:大宰府 〜遠の朝廷にはチャンスがいっぱい!〜

2015年5月1日のブログ:新緑の大宰府を歩く

2016年6月17日のブログ:梅雨の大宰府は紫陽花の里だった
都府楼跡(大宰府政庁跡)
背後は大野城(四王寺山)大宰府防衛のために築かれた山城で山中には長大な石垣が残っている。
白村江の戦いで敗れた倭国が唐/新羅連合軍の侵攻に備え構築した。






太宰府政庁正殿の礎石




大野城(四王寺山)

政庁正殿跡から南西を望む
山並みは背振山系



学業院跡の桜


里の桜
都府楼跡から観世音寺へ向かう道すがら



戒壇院山門

観世音寺講堂

観世音寺参道
南大門跡

観世音寺宝蔵
馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音
など巨大な観音像が安置されている


レンギョウ


講堂の「観世音寺」の扁額



宝篋印塔と石仏群

観世音寺五重の塔心礎
創建時から動いていないという

国宝観世音寺梵鐘
背景は宝蔵

鬱蒼たる観世音寺参道

観世音寺入り口

御笠川沿いの桜並木


御笠川



御笠川から宝満山を望む

五条あたりの道標



(撮影機材:SONYα7R II + FE24-240 Zoom)


2017年4月10日月曜日

桜咲く(1) 〜福岡舞鶴城の桜〜

 
多聞櫓



 今年は桜の満開が遅い。先週の大和路散策では、全く桜に恵まれなかったが、ここ福岡にきてようやく桜がほぼ満開となっている景色を拝むことができた。1日目は快晴。この時期にしては暑いくらいの20℃超。いたるところさぞや桜が満開... しかしこの日は1日仕事で、九州大学伊都キャンパスにいた。山を切り開いて造成した近代的な高層ビルが連なる新キャンパス。しかし学校には必ずある桜の気配はなし。時期だ時期だけに「入学式会場」の看板が並んでいたが、桜華に迎えられての入学式は無理そうだ。いかにも新開地という風情。桜が似合う智の殿堂に成熟するにはまだまだ時がかかろう。翌日福岡市内中心部へ。しかし、昨日と打って変わって天気が崩れ、あいにくの雨模様。これはこれで風情があって良い、とうそぶかざるを得ない。ホテルの近くの桜の名所、福岡舞鶴城跡に来てみた。

 この福岡城は、関ヶ原の功績で豊前国中津から筑前一国52万石の太守として入府した黒田如水、長政父子により築城。縄張りの名手、黒田如水の手になる名城である。別名、舞鶴城とも呼ぶ。あの熊本城を築造した加藤清正がその合理性と防備性能に驚嘆したという福岡城。朝鮮の役で難攻不落であった晋州城をモデルにしたと言われる名城である。しかし、なぜか福岡城はこれまで「天下の名城」という評価を受けてこなかった。なぜなのだろう?そのためかあまり城跡が史跡として大事にされてこなかった嫌いがある。明治維新後は、47あったと言われる壮麗な櫓の数々も破却され、石垣と内掘のみが残った。城の西側にあった古代の草香江野津を利用した大堀は勧業博覧会開催のため、一部が埋め立てられ、修景整備されて現在の大濠公園となった。城内には一時期、県庁などの建物があったそうだ。戦前は陸軍の練兵場になっていた。戦後は、戦災復興住宅が城内に建設されいまでも住宅地が存在していて中学校まであったが去年廃校になった。一世を風靡した野武士軍団西鉄ライオンズのフランチャイズであった平和台球場や、福岡国際マラソンの平和台陸上競技場が城内いっぱいに作られ、高等裁判所が上の橋御門の奥にそびえる。国立病院も大濠公園寄りの堀端にあった。ようするに史跡として扱われず、広大な官有地として捉えられていた。

 最近、ようやく城跡としての整備が始まったようだ。2013年、「福岡セントラルパーク」構想が策定され、それによって城跡公園としての建物の復元、石垣整備、緑地整備などに取り組むこととしている。そのきっかけは旧平和台球場跡で見つかった古代鴻臚館跡。奈良時代後期から平安時代にかけて太宰府の外港として殷賑を極めた那の津・博多津に、大陸との外交、交易のために設けられた公館。外交使節の接受と、官製貿易、すなわち貿易利権を律令国家が一手に手中に納めるために設置された施設であった。しかし、鴻臚館は資料に記録はあるものの、長く所在地が不明であった。戦前は博多部の呉服町あたりにあったと想定されていた。しかし九州帝国大学医学部の中山平次郎教授は、福岡城内のこの位置にあったはずと「予言」していた。そうして旧平和台球場の改修工事中に遺構の一部がついに見つかった。その後、球場が廃止となりその取壊し、跡地整備の時に大規模な遺構が発見されるに至った。現在は、その遺構と大量の出土品を展示、収蔵する鴻臚館資料館が建っている。これとセットで福岡の史跡観光資源として整備しようということになったようだ。
鴻臚館
旧平和台球場跡から遺構が発掘された

 国立病院も移転し、高等裁判所も間も無く六本松の九大教養部跡(旧制福岡高等学校跡)に移転する。残るは陸上競技場と住宅団地のみ。陸上競技場は博多の森競技場という立派な施設ができたが、福岡国際マラソン出発/ゴールという伝統ある競技場なせいか、移転取り壊しという話を聞かない。一部、潮見櫓や祈念櫓が復元されたが、その復元位置は記録も少なく正確ではないとされる。常に論争の対象になっている。また最近、下の橋御門が復元されたが、これも当時の資料が残っておらず、その復元様式にもいろんな疑問が投げかけられている。とにかくこれだけの大藩の大名の、これだけの縄張りを誇る城郭であるにもかかわらず残存資料が少なすぎるようだ。石垣もあちこちで崩壊が始まる有様であったが、最近徐々に修復工事が進んでいる。一方で、市民の間で天守閣を再建しようという試みもあるようだが、そもそも天守閣は存在しなかった(あるいは建てられたが、すぐに破却されたとの記録もある)ので、「再建」といってもどんな意匠にするのか。というわけであまり盛り上がってはいない。

 以前から感じているが、福岡という町自体、意外にも城下町としての面影が薄い町である。市民の間でも、こんな大きな城跡があるのに、城下町だという認識が乏しいのではと感じてしまう町、福岡。そういえば、各地の城下町にある名園と謳われるような大名庭園も、城下町独特の家並みもない福岡。よく福岡以外の出身者に「お城なんてありましたっけ?」と聞かれる。お隣の博多ですら、町は弥生時代、古代から中世にかけて大陸への窓口、国際貿易港として繁栄した2000年の歴史を有するのに、そうとわかる遺構は少ない。博多の聖福寺、承天寺に本邦最古の禅寺を確認することができるが、その他は博多祇園山笠の「流れ」に太閤割の時の博多町割の面影を残すのみだ。古代、奴国の時代から日本列島における最先端文化地域、大陸からの文明の玄関口であった博多なのだが、その割にはあまり歴史の蓄積と重みを感じさせない今の福岡市だ。そういった観点からも鴻臚館跡の発見は画期的だし城跡公園の整備を合わせて、これから日本最古の国際交易都市、2000年の歴史という資産を生かした街になるキッカケになってほしいものだ。

 今回の旅でも感じたが、福岡は最近は訪日外国人(中国、香港、台湾、韓国)が急増している。いたるところで中国語や韓国語が聞こえる。一時期の「爆買い」を目的にしたツアーは下火になってきたようだが、相変わらず団体さんが、どっと押しかけ、どっと帰ってゆくパターンはここ福岡・博多でも変わらない。かつて日本人団体ツアーが欧州やNYCを旗に伴われて集団闊歩していた姿を思い出させる。この日も福岡城に大勢の団体さんがバスで乗り付けていた。空路はもとより、釜山からは高速船でわずか3時間で博多港に着く。上海からは大型のクルーズ客船で大量の中国人観光客が博多港に押し寄せる。こうしてみると、やはり博多は古代より大陸への玄関口であったのだということを改めて実感させられる。

2012年6月16日のブログ:福岡城と鴻臚館 〜半島に築け時代の館を〜

石垣が修復され美しくなった
桜花が映える


舞鶴城お堀ばた
4月は新入社員のシーズン
一人で大丈夫か?

祈念櫓

平和台陸上競技場

天守台石垣
武者返しが無い直線的な構造

天守台から本丸を望む




油山展望

天守台への鉄門あたり

名島門

城跡公園から大濠公園へ

大濠公園

大濠公園から望む油山

柳が芽吹き始めた
(撮影機材:SONYα7R II + FE24-240 Zoom)


2017年4月5日水曜日

桜はまだだ...春爛漫の大和路を歩く(3)〜長谷寺、室生寺、大神神社 編〜

 奈良市内を離れ、三輪山の麓から初瀬街道にそって長谷寺、室生寺へと歩を進める。ヤマト王権の発祥の地である三輪山山麓。奈良市内からは「山辺の道」が南に伸び、道に沿って大型古墳が並ぶ、いわゆる大ヤマト古墳群である。最近、纒向の地に東西軸で構築された3世紀のものと考えられる宮殿/神殿跡が発見された。これぞ邪馬台国女王卑弥呼の居館であると騒がれたが、まだ明確な証拠となる遺物は見つかっていない。むしろ初期ヤマト王権の拠点遺跡であろう。その三輪山から東に谷あいを進むと、初瀬街道、伊勢詣での伊勢街道へと続く。ここには観音様で有名な長谷寺、そして女人高野室生寺がある。山と谷に囲まれた隠国(こもりく)の初瀬だ。


(1)長谷寺

 真言宗豊山派の総本山。もとは天武天皇の病気平癒を願い、686年に初瀬山に開いた精舎(現在も本長谷寺として残されている)である。727年には聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀った。やがて西国三十三所観音霊場の根本道場となった。平安時代には長谷の観音様詣でがみやこ人の間で人気があり、初瀬街道や伊勢街道が参詣客で賑わった。いまでも初瀬街道沿いには宿屋や茶店、土産物屋が軒を連ねている。なかでも出雲人形という土人形が名物であった。京都の伏見人形とともに参詣の土産として売られていた。残念ながら現在では伝統を継ぐ職人もなく、唯一残っていた出雲人形の店も看板はあるが玄関は固く閉ざされている。代わって最近の土産物は、草餅。そして三輪そうめん。我らも、にゅうめんを食して初瀬もうでを締めくくった。

 長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれ、四季折々の花に彩られる美しい寺だ。とくに春の桜、五月の牡丹、秋の紅葉は有名。その他にも四季折々に花が咲き乱れ、いつ訪れても目を楽しませてくれる美しい寺だ。桜は今回残念ながらまだ咲いていなかったが、梅やサンシュユ、花桃、雪柳が早春の名残に咲き誇っていた。全山満開の桜の季節になると、初瀬川対岸の愛宕神社境内から眺める桜花に埋もれる長谷寺の全景が素晴らしいのだが。今回は境内は季節の端境期で訪れる人も少なく静かな佇まいである。それはそれでまた良し。

 ちょうどご本尊の十一面観音菩薩のご開帳の時期にあたった。普段は入れない内陣に入れてもらい、御像の足元に触れさせていただくことができた。身の丈が三丈三尺(約10メートル)で、近江高島の楠の霊木を彫り上げた観音様。右手に錫杖を持ち、大磐石という大きな平らな石の上に立つ独特のお姿を足元から見上げる。はるか頭上に慈愛に満ちて微笑む観世音菩薩との結縁を結ぶことができた。私のような現実的で理屈優先な人間がなぜか心洗われ世俗の憂いや煩悩から解き放たれた心持になった。


参考:

2012年4月18日のブログ:初瀬のお山は花盛り〜長谷寺の桜〜
2015年12月18日のブログ:初冬の大和古寺巡礼(1)長谷寺〜冬紅葉を巡る旅〜


名残の梅が本堂舞台を彩る

与喜天満宮から初瀬街道を望む


西国三十三ヶ所巡りのお遍路さん




参道の梅

登廊

桃とサンシュユ

桃が盛りだ

さんしゅゆ

お遍路さんご一行さま
舞台

内陣から舞台を望む


善男善女の参拝が続く

桜が咲き始めた

サンシュユの大木がみごと!




(2)室生寺

 室生寺のあるここ室生の地は、太古の室生火山群が形成する深山幽谷の地、神々の坐す聖地として仏教伝来以前から仰がれていた。近くには龍神信仰の聖地龍穴神社がある。奈良時代の後期に勅命により創建されたのが室生寺。山林修行の道場にして法相/真言/天台各宗兼学の寺であった。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許す真言道場であり「女人高野」と称された。大和路の寺のなかでも谷を越え山に分け入る地にある静かな聖地である。

 ここはシャクナゲで有名な寺で、金堂にいたる鎧坂の両側はその季節になると見事であるが、もちろんまだその季節ではない。里ではそろそろ蕾をつける頃だが、深山幽谷の室生寺ではまだまだだ。そしてやはり桜はまだであった。しかし、なんという静けさ。こんな春の陽光の中、鎧坂、金堂、五重塔、奥の院へ続く道、ほとんど独り占めできる嬉しさ。今回は奥の院までは行かなかったが、これから新緑の季節を迎えると、向かいの室生山の山肌が若葉で美しく輝く。いつ訪れても心洗われる聖なる場所だ。

 室生寺は大和路散策のなかでも人気の寺で、近鉄室生口大野駅から日に数本しかバス便が無いにもかかわらず、平日でも結構な数の参詣者がいる。しかし、この日はさすがにバスの客も少なくゆったりと20分のバス旅を楽しむことができた。駅近くの大野寺の枝垂れ桜が有名で、シーズンには大勢の花見客が押しかけるが、この比較的早咲きの桜さえ今年はまだ蕾であった。河岸の磨崖仏もこの日は寂しそうだ。

 こちらも、この時期、金堂の内陣が特別公開であった。普段は外の回廊から拝観するしかない。ところがちょうど諸仏のご尊顔あたりにハリが横たわっていて腰を低くして尊像を拝せざるを得ないのだが、この時は内陣ですぐ目の前に並ぶご本尊、薬師如来、土門拳の写真でも有名な十一面観音などの諸仏を拝観することができた。建物自体も平安期創建時の建物が貴重なことに残っていいて、時空を超えた曼荼羅世界に浸ることができた。


参考:

2016年1月21日のブログ:女人高野室生寺に雪が降った〜土門拳の世界に迫る?〜

鎧坂


鎧坂からみる金堂
平安時代初期(国宝)

今回は内陣の公開があったので
ご尊顔をゆっくり拝見できた

寺を守る神社
神仏習合のあらわれ

国宝五重塔
平安時代初期(国宝)
平成10年の台風で大きな損傷を被ったが平成12年に修復された。


同じく、横位置にして広がりを表現してみた


ここにも名残梅



(3)大神神社

 最後に、三輪山を御神体とする大神神社へ。神奈備型の美しく神聖な三輪山は大和の風景のシンボルであり、ヤマト王権発祥の地にふさわしい聖山である。そもそも大神神社の御祭神は大物主神。出雲の杵築大社(出雲大社)の御祭神、大国主命の別神とされており、「国譲り神話」という、ヤマトと出雲のつながりを暗示する記紀神話ストーリーの舞台である。また蛇が神の化身と言われ、大杉のウロに住み着いているという。参拝者は卵を御供物として献納する。記紀神話ではヤマトトトヒモモソヒメとの婚姻譚、其の死後に築造されたという箸墓古墳についての伝承が伝えられている。これが中国の史書、魏志倭人伝にいう邪馬台国女王卑弥呼であり、したがって箸墓古墳が卑弥呼の墓であると結びつける説がある。これを邪馬台国近畿説の「根拠」にしている学者もいる。もとより神話と考古学と中国の文献とを結ぶ証拠はもちろんない。日本側の公式な史書である記紀には邪馬台国や卑弥呼に関する記述、言及が一切ないのである。

 しかし、三輪山が、太陽神という自然神崇拝、やがては一族の祖霊神崇拝を旨とする、列島の原始宗教形態のシンボルになっていったことは間違いない。このような神奈備型の山を天上界の神が降臨する聖山として崇め、その麓で祭祀を執り行う形態は、列島の各地にあった。のちに(6世紀の仏教伝来以降、その外来の壮麗な宗教施設である寺院建築物に影響されて)拝殿、社を設け「神社」とするようになる。やがて列島内の首長・豪族といった勢力が緩やかな統合に向かい、大和三輪山の麓(やまと)に打ち立てられた「ヤマト王権」が列島を取りまとめる中心となってゆく(その遺構が纒向遺跡であり箸墓古墳である)。そして三輪山が、いわば「聖山の中の聖山」として王権のシンボル的なステータスになってゆく。そのなかで、やがて祖霊信仰が加わってくると、三輪山に一族の祖霊神を投影するようになる。それが大物主命であり、出雲大国主命の別神であると伝承され、出雲と大和の結びつきの記憶を想起させることとなる。

 三輪山の麓からヤマト世界を展望できる場所がある。ここからはとりわけ夕日に彩られる風景が美しい。大和三山、葛城・金剛山、そして二上山が見渡せる。日の出る山、三輪山、日の没する山、二上山。太陽信仰を基本とする東西軸の宇宙観を持った倭国ヤマト世界をここに立つと体感できる。南北軸の宮殿配置、都城配置は(藤原京・藤原宮、平城京・平城宮以降の)は後に中国から伝わった思想に基づくものである。さらに6世紀になると仏教が伝わり、西方浄土という考え方が徐々に人々に受け入れられる。やがて夕日の沈む彼方の極楽浄土を憧れるようになり、二上山が聖山として崇められるようになる。

 聖山三輪山の麓が3世紀ヤマト王権発祥の地である。しかし、そのこととここが邪馬台国の所在地であったか、ということは別問題である。同じく3世紀の倭国の姿として記述される魏志倭人伝世界の邪馬台国はやはり北部九州チクシ倭国連合の中心国であったという考えに変わりはない。3世紀当時の列島各地には、大小の違い、結びつきの強弱の違いはあれ、いくつかの地域連合があったであろう。筑紫、出雲、吉備、但馬、越、尾張などの地名がそれを表している。なかでもチクシ倭国連合はその、地政学的立ち位置、奴国、伊都国時代からの大陸との交流の歴史から、中国王朝(特に漢帝国)との結びつきが強く、列島内において文化的、経済的、政治的に優位なポジションにいたことは間違いない。しかし、大陸の漢王朝が衰退し、分裂して三国時代になると、チクシ王権の盟主である邪馬台国(卑弥呼)は朝鮮半島を通じて魏朝に朝貢するが、一方で、魏と対抗する呉(現在の上海付近)王朝と通交した列島内倭国の地域王権があったかもしれない。中国においても呉や蜀の史書は失われており、残念ながらこれらの通交を記録する文献資料は見当たらないが、当時の東アジア情勢は中華王朝、朝鮮半島、倭国を巻き込んで合従連衡の中にあったと考えるべきだろう。そうしたなかで魏志倭人伝には出てこない倭国内の(列島内の)有力な倭人勢力が幾つかあったとしても不思議ではない。その一つがヤマト倭国連合であった。この初期ヤマト王権の出自についても謎が多いが、先ほどの出雲勢力との関係や、その背後にある筑紫勢力(倭国争乱で邪馬台国に敗れて東遷したチクシ勢力と考える)と無縁ではないだろう。大和盆地に自生した土着勢力とは考えにくい。

この辺りの話はし出すとキリがないのでこのあたりにしよう。さらに興味のある方は、下記のブログをご一読あれ。

 ふと我にかえり目をあげると、眼下に広がるヤマト世界を夕日が茜色に染め上げている。


参考:

2016年1月17日のブログ:なぜ大和三輪山には出雲の神が鎮座しているのか?
2016年10月18日のブログ:「初期ヤマト王権」とはなにか


大神神社拝殿
御神体はこの後ろの三輪山

夕日に映える表参道

大和の夕景
まもなく二上山に夕日が落ちる

真西に夕日が沈みゆく
東の三輪山、西の二上山という
東西軸の宇宙観をここに立つと体験できる

大鳥居と耳成山
背景に葛城山、金剛山
ヤマト世界の夕景だ。
(撮影機材:SONYαR II + EF24-240Zoom. 長谷寺金堂と大神神社拝殿はLeicaM10 + Tri-Elmar 16-18-21/4 ASPH)

アクセス:

長谷寺:近鉄大阪線長谷寺駅下車。徒歩20分
室生寺:近鉄大阪線室生口大野駅下車。バス20分。
大神神社:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅下車。徒歩15分。