川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作は1982年に描いた「緑響く」である。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。
一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになったわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」である。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。何点かの習作が残されているが、やはり山種美術館所蔵の「年暮る」だろう。
私は京都に行く時はホテルオークラ京都を定宿にしている。かつての京都ホテルである。その東山側の部屋からは鴨川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からこの街並みをスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た瞬間、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかなである。
東山魁夷「年暮る」 1968年(昭和43年) (山種美術館蔵) |
2016年(平成26年)2月 ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から 同じアングルで筆者撮影 |
「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋の滔々たる甍の波は消え去り、形も高さも不揃いな現代建築物に置き換わってしまっている。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。ちなみにこのホテルオークラ京都、建て替えの時に景観論争を引き起こし、ここの宿泊客の拝観を拒絶するという「寺社側の強行策」にまで発展したことがあった。あれから何年経っただろう。周囲にはマンションが立ち並び、ホテル周辺の景観自体がこのように激変してしまった。あの論争は何であったのか。記憶の彼方に薄れつつある。
京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日本(ひのもと)の都(みやこ)として繁栄を続けてきた。そしてその伝統的な街並みや景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても京都人が言う「応仁の乱」ではない)で戦火に巻き込まれることもなく生き残ったこの町が、戦後の平和と経済的繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊され変貌を遂げてしまうとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、「資本の論理」で街の有様を変容させるのも人間の業なのだろう。物欲煩悩止まるところを知らず、か。
これまでの人生の中で、ヨーロッパやアジアの街を旅してきたが、古い伝統の街並みを大切に残す営みは、長い歴史を誇る街に住む人々に共通しているように感じる。ドイツやイギリスでは戦争で破壊された街で、もとの古い建物を忠実に復元し、街並みを再建したところを見た。台湾では古い日本家屋群がそのまま保存修景されてアートコンプレックスとして生まれ変わったところを見た。単なる古いものへのノスタルジアではなく、自分たちの生活様式、価値観、そこから生まれる文化、そうしたアイデンティティーの表現形態の一つに、家屋、その連なりである街並み、コミュニティーがあるはずだ。それを壊してしまって何の変哲もない「経済合理性」という価値観だけが強調された街区に変容してしまう。それでは寂しい限りだ。日本を代表する古都、京都においてすらこのような有様であるから、まして東京も地方の大都市も、狭い土地にぎっしりと小さなビルが無秩序に建ち並ぶ特色のない街に変貌してしまった。日本ではいつの間にか建築物は「不動産」ではなく「動産」、あるいは「耐久消費財」になってしまったようだ。建物は工場で製造されて、現場で組み立てる規格品(プレハブ製品)になってしまった。その方が材料費も建設費も安く上がる。できるだけ頻繁に建て替えることで経済が回るようにした。築100年、200年の建物なんぞお目にかからなくなってきている。日本のあちこちを旅すると皮肉なことに経済発展の恩恵に浴することの少なかった地域に古い街並み、町屋や古民家がひっそりと残されているのを発見する。よく地方の古い街並みを「どこどこの小京都」と形容し、これを観光キャッチフレーズとして押し出している自治体や観光協会がある。しかしこの言葉が嫌いだ。そこは京都ではないし、「近代化」された京都より古いものがよく保存されていることだってある。かつてはその地方の独特文化の栄えた、城下町であったり、宿場町であったり、在郷町であったりする。地元の人々はそれを大事に守っているのだ。しかし本家の京都より「どこどこの京都」にそうした伝統の街並みが残っていることは皮肉だ。
川端康成の危惧は的中し、東山魁夷は「年暮る」を残した。これからの日本、大事なものを失わないように、文化的な感度を高めてゆく、そんな大人の国になって欲しいものだ。「文化財、守れる人が文化人」。奈良の今井町に掲示されていた標語が今も心に響く。