日本橋三越本館玄関 |
東京には近代建築遺産ともいうべき歴史的な建物が多い。そもそも「近代建築遺産」とは、主に明治以降に西欧建築の影響のもとに建てられたもので、歴史的価値が評価されて保存修景されているものをいう。だいたい昭和初期くらいまでの建物をいうようだ。「洋館」として、あるいは「赤煉瓦ビル」「大理石ビル」として建設が進み、中には和洋折衷というか「擬洋風」「帝冠建築」の建物もあって、これらを見て回るだけでも興味深い。やはり東京や大阪はその集積度が高く、大阪にいた時も随分大大阪時代の近代建築遺産を見て回ったものだ(以前のブログ参照)。一時は大阪でも東京でも都市の再開発が進む中、その歴史的な建築物の取り壊しが問題となった。そのような建築遺産の保存が危ぶまれる事態になっていたが、大阪では中之島のダイビルのように大規模な建て替えと、歴史的な建築遺産の保存をうまく両立させた例がある。また最近では大丸心斎橋店の建て替えに伴い、やはりその歴史的遺産の保存承継が話題になった(後述する)。東京ではかつてのフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルや日比谷三信ビル、丸の内銀行協会ビルのように惜しげもなく解体されてしまったビルもあるが、第一生命ビル、明治生命館のようにファサードや内装を極力生かしたまま、高層部を継ぎ足す形で現代的な用途にも合うよう増築改装したものが多い。あるいは三菱一号館や、東京駅のように元の形に復元再建した例もある。
そうした中であまり近代建築遺産という視点で捉えてこなかった歴史的建築物に百貨店(デパート)がある。考えてみると百貨店はその街の顔であったり、その街の繁栄のシンボルであったり、その街の歴史の証人であったりする。何よりもわれわれの日常生活にも馴染みの深い建物である。その都市にはいくつ百貨店(デパート)があるか、どんな建物か、どれほどの品揃いかは、その街の大きさ豊かさのバロメーターであった。特に老舗の百貨店は荘厳な建物を競って建てた。東京では三越はもちろん、いまでも新宿の伊勢丹、銀座の松坂屋(Ginza6となり今はない)、松屋、日本橋の高島屋があり、外装を変更したものもあるが歴史を感じさせる堂々たる建築として町に存在感を誇っている。一方で「有楽町で会いましょう♪」の有楽町そごうのように撤退を余儀なくされ、跡地が量販店のBカメラになっているところもある。電鉄系の百貨店には業態を変えているところも出始めている。
大阪では難波の南海高島屋、御堂筋の大丸心斎橋がその代表であろう。阪急の梅田本店も立派だったが今は完全に建て替わってしまった。近鉄上本町店も大軌時代のレトロビルが建て替わり、昔の面影がなくなってしまった。大丸心斎橋は1922年、ウィリアム・ヴォーリス設計の歴史的建築である。建築文化遺産といって良い。2010年に建替えの話が出た時には、この歴史的建築物が大阪心斎橋から無くなると皆心配したものだが、2019年に耐震構造化、高層化してリニューアルオープンした。新しい上層部が旧本館の上に建て増されたが、見事にヴォーリス設計のオリジナルのファサードと内装が復元された。大大阪という街の歴史に対する誇りと敬意が示された形だ。続いて本館隣の旧そごう、現在の大丸北館の建て替えに移るようだ。しかし、一方でかつての大大阪のメインストリーであった堺筋(御堂筋が拡幅される以前はこちらが中心街であった)にあった三越や松坂屋はとうに無くなってしまった。かつての百貨店激戦区大阪の現在の姿である。
我が故郷、発展著しい福岡/博多で百貨店といえば、天神の岩田屋、中洲の玉屋であった。呉服町に博多大丸もあったが天神に移転した。なかでも岩田屋は、大阪の阪急や阪神、南海、近鉄のようなターミナルデパートで、西鉄福岡駅に直結したデパートとして、天神交差点の一角に陣取った堂々たる建物であった。その外観は東京で言えば銀座4丁目交差点の服部時計店(和光)のレトロビルにとてもよく似た佇まいであった。懐かしい特撮怪獣映画の「ラドン」が舞い降りたあのデパートだ。玉屋は中洲にそそり立つシックなレンガ色の洋館で、那珂川の川面に映るシルエットに情緒があった。どちらも福博のランドマークとして威容を誇った近代建築であったが、今は両方とも跡形もなく消えて無くなってしまった。残念ながら商業的な合理性が優先されて歴史的な建築遺産に敬意を払っているいとまがなかったようだ。商業的にといえば、その岩田屋は西鉄福岡(天神)駅のターミナルデパートの地位は東京からやってきた三越に明け渡し、旧天神電話局跡に移転した。岩田屋自体も三越伊勢丹ホールディングの傘下に入った。岩田屋のあった天神交差点の一等地は、これまた東京から進出してきた西武系のパルコになった(ビルは新築ではなく壁面をリノベしたもの。外装を外すと元のレトロな岩田屋ビルが現れるという都市伝説がある...)。JR博多駅の新ビルには阪急と東急が主要テナントで入り、その隣の博多郵便局跡の日本郵便ビルにはなんとマルイが入った。かつて、福岡には東京・大阪資本の百貨店は一店もなかったのだが、福博財界完敗の構図だ。
いまや小売業界の雄としては姿をフェードアウトさせつつある百貨店、デパートも、その言葉の響きには、われわれ昭和団塊世代にとってはノスタルジックなものがある。小さい頃、日曜日といえば父母や祖父母に連れて行ってもらったものだ。そこは子供達のワンダーランド。洋服売り場は退屈な場所。おもちゃ売り場は夢の国。そして屋上は乗り物がいっぱいのテーマパーク。時には「迷子」になって泣きながら、案内係のお姉さんと一緒に母が現れるのを待つ。大食堂で「お子様ランチ」を食べて大満足して(チキンライスの上に刺してある旗を記念に持って)帰る。1日遊んでもまだ足りない。そんな夢の世界であった。夏休みに大阪と東京のおじいちゃん、おばあちゃん家(ち)へ行くと、そこでも百貨店へ遊びに連れて行ってもらい、福岡とは違うその大きさと豪華さに驚いたものだ。そんな昭和な時代の思い出の詰まった百貨店である。また百貨店は街の文化の発信基地であった。大きな美術展、展覧会や、観劇の会場はたいてい百貨店であった。特に地方ではそうであった。今では、美術館やギャラリー、規模の大きな専用の劇場ができたが、かつては大きなイベントの会場は百貨店と相場が決まっていた。ファッションショーもデパートの催物の目玉であった。実は私も幼稚園の頃に天神の岩田屋のファッションショーに出た!今でも晴れがましい思い出の一コマとなっている。デパートは我が「舞台デビュー」の第一歩であった。それが最初で最後であったが... ちなみにその時、一緒に出場した女の子が舞台上で動かなくなってしまい、私が手を引いて舞台袖に連れて帰ったので会場から笑いと大拍手をもらって恥ずかしかったことを思い出す。今や白髪頭のひねたオヤジにもそんな可愛い子供の時代があった。
東京には多くの老舗百貨店があるが、その代表格の一つはなんと言っても三越であろう。この日本橋店は、そもそも江戸時代の三井家、越後屋呉服店の跡に開店した日本初の百貨店である。三越百貨店創業の地であることからも、その歴史的なランドマークとしての価値も高い。この三越日本橋店は、関東大震災後に建てられた建物の鉄骨構造を生かして昭和2年(1927年)、鉄筋コンクリート7階建で竣工。昭和10年(1935年)に増築し、五層吹き抜けの中央ホール、劇場、特別食堂を整備。フルブロック地上7階建ての現在の本館となった。横川工務所設計施工。意匠はルネッサンス様式、内装の一部はアールデコ様式とし、百貨店建築の代表となっている。玄関前の二頭のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場のネルソン提督像の根元に鎮座するライオンを模したものだ。また、五層吹き抜けの中央ホールに聳える天女像は、創業50周年を記念して10年の制作年数を経て、昭和35年(1960年)完成した高さ11メートルの木彫だ。佐藤玄々の作。いずれも三越の格式と伝統を象徴するものとして今に受け継がれている。2016年に建物は国の重要文化財に指定。百貨店黄金時代の「生きた文化財」として後世に伝えられることになった。百貨店受難の時代。この「百貨店」というビジネスモデル共々「産業近代化遺産」化してしまう前に、せいぜい利用して「動態保存」に努めていく必要があるだろう。店内をふと見回すと、来店客は圧倒的に中高年が多い。これからの少子高齢化の時代は「若者」ではなく「お金持ち」のシニア層を狙ったビジネスモデルで生きていけるにちがいない。そのためには建物もそれなりの歴史による熟成と風格を備えたシニアに魅力的なものであることが必須だろうと妄想する。子供の頃のワンダーランド、百貨店は、いまや「あの頃子供」だったシニア世代のワンダーランドになっている。それだけの時間をわれわれとともに歩んできた百貨店を建物とともにこれからも大事にしたいと思う。
夜景ライトアップ(「新・美の巨人」ウェッブサイトより引用) |
日本橋三越 「三井アベニュー」にそそり立つ堂々たるルネッサンス様式のビル |
三越といえば「ライオン」 トラファルガー広場のライオンのコピー |
玄関左右の「ライオン」は有名だが 玄関ファサードの上部に「黄金のマーキュリー像」があるのに気づかなかった |
圧巻の中央ホールの5層の吹き抜け |
天井はステンドグラス |
佐藤玄々作 天女像 高さ11メートルの木彫 |
屋上にある夏目漱石の記念碑 |
三囲神社 三井家を守るという意味がある守護神 本館屋上に鎮座している |
活動大黒天社 |
屋上庭園と塔屋 |
昭和10年の増築になる 「金字塔」 |