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2011年2月8日火曜日

大阪 上町台地の夕陽


大阪の上町台地は縄文時代には海に突き出た岬のような高台であった、河内地方は海であった。弥生後期頃から次第に河内湾は干上がり始めて河内潟になり遂には陸地になってしまう。この上町台地は文字通り台地となり聖徳太子が四天王寺を開いたり、仁徳大王の高津宮があったのでは、と推測されたり、皇極大王が難波宮を建設し、遷都したが,すぐに飛鳥古京にもどり、孝徳大王が置いてきぼりになって東の二上山の向うの飛鳥を思いながら崩御したり...

その後の歴史のなかで、中世には一向宗徒がこの台地の北の先端に石山本願寺を開き、その跡に秀吉が大坂城を築く。難波津は古くから瀬戸内海を通じて北部九州、大陸とも繋がる重要な港であった。飛鳥からは丹比道、大津道、横大路、竹内街道で結ばれ、古代倭国にとっては、大陸からの重要な文化の受容口であった。太閤秀吉は大坂城を築いてからは上町台地上に平野郷から人を移動させて、街を造り、寺を集めて寺町を築いた。

日本の歴史のなかで、「西」は大陸の進んだ文化や富がやってくる方向であり、仏教伝来以降は西方浄土の方向であり,常にあこがれの方角であった。そして、西に沈む太陽、夕陽の美しさが人々の信仰の対象になったり、心象風景になったりした。それはまた相対的には自らは日が昇る東の海に国を為す民である、というアイデンティティーの表れでもあった。

いまでこそ、上町台地の西岸は大阪の市街地として発展し、西側の展望は利かなくなっているが、いまでも夕陽ケ丘という地名が残り、寺町には四天王寺七坂健在だ。ここ上町台地から眺める夕陽は美しく,古代人ならずともなにか心を奪われる風景である。



(西に沈む夕陽の光芒が美しい)



(東を向くと、遠く二上山と金剛山を望むことができる。河内平野の上空を覆う雲間からの光芒。あの山の向うは大和盆地、飛鳥だ。孝徳大王の望郷の念を思う)




(上空に雲が厚くたれ込め夕陽が覗く余地がないとこのようなグラデュエーションの空となる)





(夕陽が西に沈むころ。西方浄土とはこのような夕陽輝ける所なのか。東京と異なり意外に夕陽が赤い。大阪の方が空気がましなのだろう)



(南を向くと空と雲の色が全く異なる。通天閣から和泉方面を望む)







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2011年2月3日木曜日

I am in a New York state of mind. 我が心のニューヨーク





ニューヨークを離れて早くも5年になろうとしている。マンハッタンでの単身生活とコネチカット州グリニッチ、NY州ホワイト・プレーンズでの家族と暮らした時間も含めると通算で6年半程過ごした。

グリニッチで家族と過ごした2年半は楽しい思い出でイッパイだ。この街は東部のエスタブリッシュメントの住宅街で、もちろんニューヨークで仕事する多くのビジネスマンや投資家やジャーナリストのベッドタウンでもあった。
私もOld Greenwichの駅から、New Haven Lineの電車に乗ってGrand Central Terminal経由でMidtownのオフィスへ通っていた。妻は地域のコミュニティーの活動にいそしんで多くの友人を得た。その時の友人達とはいまも交遊が続いている。

小学生と幼稚園児であった息子と娘は日本で大学を出て、息子はロックバンドのベイシスト。一時期はヒットチャートでトップランキングに入る人気バンドであった。あのときは全米ツアーでニューヨークにも寄り、グリニッジビレッジの伝説のライブハウス、ニッティングファクトリーで公演した。彼にとってはニューヨーク凱旋公演であった。いまは日々の暮らしにも事欠く有様。この業界の浮き沈みの激しさを肌身で感じている。でも息子は決して音楽の夢を捨てていない。相変わらず詩を書き続け、ライブのステージに立ち、時にはソロで弾き語りをする。明るくポジティブに生きている、結婚して嫁さんと助け合いながら。

娘はいまニューヨークのブルックリンでフォトジャーナリストを目指して修行中。大学在学中から某有名写真家のオフィスで働きながら写真の世界にふれた。ニューヨークへ渡りフォトジャーナリスト集団マグナムゆかりの学校に入り、いまはフリーのフォトグラファー。そういうと聞こえが良いがそもそもフリー(定職なし)で食えていない。将来に向ってあがいている真っ最中。それでも回りの人たちの暖かいご指導ご支援と、日本のとある出版社の特約フォトグラファーとしての契約でなんとか糊口を凌いでいる。娘も信じられないくらいに楽天的でポジティブ思考だ。

この二人のこの人生に対する価値観、すなわち、集団のアイデンティティーよりも個のアイデンティティー重視という思考、そして自分の掲げたゴールに向って自分を信じて駆り立てるエネルギー、そして信じられない程の楽天主義は、まさににアメリカのもの、なかんずくニューヨークのものだ。三つ子の魂百までとはよく言った。

私にとっては,ニューヨークはもちろんビジネスの街だ。多くの多国籍企業がしのぎを削る戦場だ。多くのチャンスが転がっている。同時に数知れない挫折もそこかしこに。この世の最高のものと最低のものが同居する街。ここに新しい事業拠点を設け、M&Aで手に入れたアメリカの会社との統合とリストラクチャリングを行った。そのプロセスは緊張と挫折と「小さくガッツポーズ」の連続であった。アメリカでのビジネスの影の部分を垣間みて身の危険を感じる事すらあった。優しいだけでは生きて行けない厳しい現実がそこにはあった。 が、多くの仲間と友人の支え、メンターのアドバイスと支援が度々私を救ってくれた。またビジネスパートナーとの信頼関係がいかに大事かを肌身で感じる経験でもあった。そして東京がいかに遠い存在であり前線から隔絶された存在であるかも知らされた。

そして思いがけない前線からの撤退、帰国命令。結局はサラリーマンの身である事に気付かされた。事業は道半ば、まだ戦いは終わってない。心は折れてないのに敗軍の将になっていた。生身で戦ってるのにいきなり後ろから首を刎ねられて成仏出来ず、魂がまだ戦場をさまよっているようであった。人事ローテーションは淡々と進んで行く。組織の不条理を思った。

日本に帰って、しばらくはニューヨークの事を思い出すのも辛かった。人に聞かれてもしゃべる気がしなかった。在NY日本商工会議所などの講演で体験談を話してくれと言われるのが一番辛かった。今はしゃべりたくない...が本音であった。豊かで平和で文化の香りに満ちあふれる日本の美しさに心癒された。遠い昔に忘れ去っていたものに「美」を見つける日々が始まったのだ。成仏しない魂が現世を徘徊しつつも安穏な生活に心の平穏を感じる毎日であった。特に関西へ転勤させられてからは、いよいよアメリカとは全く無縁の日々を送る事に。遠い遠いアメリカでの戦場体験を忘れ、ひたすら大和心に酔いしれる。

しかし、5年という月日が、あの心のニューヨークを,私の中でゆっくりと熟成させ始めている事に気がついた。辛い想いも,悔しい想いも、楽しい想いも、メルティングポットの中で絶妙にブレンドされて新しい想いとして心に蘇ってくるのを感じ始めた。あるいは岩塩鉱に放り込まれたなんでもない小枝が時間とともに塩の結晶がつき、輝き始めるように、様々な想いが美しく語りかけ始めた。やはり時の経過がこれらの熟成とクリスタライゼーションには必要なのだろう。

ふと忘れ始めていた心の宝物を取り出してみたくなった。この想いを一気に書き出す事は到底無理だ、これから折りにふれて徐々に書き出して行くことにしよう。熟成したワインをゆったりと味わうように。  
全ての俗世の恩讐、功名争い、煩悩を記憶の彼方に残置して...

Billy JoelのNew York State of Mindが心に突き刺さる。





































2011年1月29日土曜日

ライカ限定モデルのお宝勝負 M9チタン 対 M7チタン

ライカの好きな稀少限定モデル。M9チタンについて前回報告したが、今回2004年のライカM型50周年記念で限定販売されたM7チタンと比較する機会を得た。どちらも500台限定だ。M7の方はレンズ3本がセットになってリモアのアタッシュケースに入った50台限定モデルも同時にリリースされた。今回、東京と大阪の老舗カメラ屋さんのご協力、コラボにより、比較研究(?)が可能となりましたことを感謝いたします。

 ちなみにM6チタンもあるが、こちらはチタンカラーのコーティングを施した真鍮ボディー。これとマッチするレンズとして発売された35、50、90mmのレンズも鏡胴はチタンコーティング(Titan Finish)。レザーはオーストリッチ風をまとっている。1000台限定だそうで、比較的良く中古市場でお目にかかる。

 M9チタン、M7チタンは両方とも純チタン削り出しボディーで、付属するレンズもチタン製だ。チタンは加工が難しい金属だからさぞ苦労したのだろう。特にM7チタンはオリジナルのM6、7と同じ形状で段差のある表面だからなおさらだ。

 M9チタンとM7チタンを比べてみると、もちろんM9はデジタル、M7はフィルムである事は言うまでもないが、

 1)まずM9チタンのボディーサイズはM7チタンより全てのディメンジョンで一回り大きい。もちろん通常のM9よりもボディーの厚みが増しているのでM9チタンは見た目がいかにもメタボボディーだ。

 2)したがって手にしたときのホールド感が異なる。M7チタンは我々の手が覚えているサイズ。M9チタンはやや手に余る感じだ。とくに日本人にはデカイと感じる。フィンガーループ方式はやはり有効だ。

 3)チタンのカラーはM7の方が濃い。M9チタンは明るいフィニッシュとなっている。M7チタン付属のSummilux 50mm 1.4 ASPHをM9チタンに装着するとレンズ鏡胴が暗く沈んだ感じだ。逆にM7チタンにM9チタン付属のSummilux 35mm 1.4 ASPHを装着すると不思議に良くマッチする。花形フードがアクセントになっている。

 4)付属レンズのレンズキャップの違い。M7チタンの50mmのほうは何のロゴも刻印されていないノッペリした、しかしずっしりと重いねじ込み式のフロントキャップ。金属度120%だがこれチタン製? リアーキャップは通常のプラスチック製。 一方、M9の35mmの方はLeicaロゴ刻印付きの被せキャップ。軽い!チタン製だ。リアーキャップもチタン製!

 総じてM7チタンは浅黒く筋肉質なスリムボディーで、手にしっくりフィットする。レザーがやや滑りやすい感じがするが、全体に重量も適度にあって金属フェチには好ましい。特にレンズがずっしり重い。一方、M9チタンはデザインが一新されたので、ふくよかでリッチな雰囲気。突起部を少なくした為か,ちょっとのっぺりしたルックス。レザーはホールド感が良い。

 「どっちが好きか?」ううん、なかなか難しいが、私にとってはM7チタンの方がライカらしくていい。これまでのライカファンにとってはデジカメM8、9でさえ、その手触りと厚みがもう今までのライカMシリーズとは違う。したがってM9チタンのようにデザインが一新されて,サイズが明らかに一回り大きくなると、もうライカではないような気さえする。ちょうどデザインが一新されたM5が出た時、保守的なユーザから評価されずに、次のM6では先祖返りしてM4と同じサイズと形状に戻した事が思い出される。

 とかくライカユーザは保守的だ。職人的な使い込んだ道具を愛でる。最新の機能やデザインを求めなていない。イノベーションよりは,トラディションを求める。平均的なユーザに売り込んで収益とシェアーを伸ばすモデルが働かない。なかなか商売しにくいだろうライカ社は。だからこそ,こんな限定モデル商法でニッチ市場を狙うのだろう。

 それはそれで狙いは良いが大きな商売にはならない。元々、日本の競争相手がやってるような事業のスケーラビリティーを求めた訳ではないのだろうが、小さくても利益率の高い商品を生み出し続けるのはチャレンジだ。しかも中古市場が賑わう事になり、新品よりも中古、ビンテージものにプレミア価格がついたりしてライカ社に金が還流しない仕組みが出来てしまう。

 ちなみにM9チタンセットのシリアル#1は写真家セバスチャン・サルドガに贈られたとか。もっぱらセレブ中心の市場に対しては週刊誌的な関心でしか接することが出来ない我々は,せめてM9チタンのデザインがM10に繋がるのか楽しみに見続けて行くだけだ。



(ブツ撮りのウデが悪すぎて違いがよくわからない、って? 視神経から伝達された画像情報とテキスト情報とを脳内で補完しながら見て下さい。スミマセン)

2011年1月22日土曜日

奈良に春を告げる若草山山焼き ー 平城宮跡から ー





奈良に春を告げる...とは言っても、ここんところの寒さで,とてもそんな感じではないが、今日は恒例の若草山の山焼き。午後6時に花火が打ち上げられ、全山が明るく照らされる。午後6時15分、花火が終わると,山の麓で待機していた地元消防団員が一斉に枯れ草に点火。火は瞬く間に山肌を駆け上り、若草山は炎に包まれる。

初めての山焼き観覧は平城京趾の寒風吹きすさぶノッパラから。西大寺駅から延々と歩き、撮影ポイントを探す。早くも5時頃には三脚で陣取りするカメラマンのオヤジさん達の姿がそこかしこに... 皆元気だ。なぜかこんなに広い所なのに,三脚がカタマッて林立している。

こちとらも撮影ポイントを決めて三脚にカメラセットして待機。やっと午後6時。辺りはいい感じに暗くなって来た。観光ポスターにあるような、若草山全山真っ赤な炎。その上に花火2〜3発...なんて光景を想像していると拍子抜けするかもしれない。あれは多重露光という写真合成テクニックを使う有り得ない光景なのだ。脳内で重なるイメージの世界だ。今回はオーソドックスに一枚一枚攻めてみる。

寒い中、長い時間待った甲斐があった。荘厳で美しい炎の響宴。奈良の街を明るく照らし出す。平城京趾からはちょうど真東に奈良の市街と若草山、三笠山の全景を見渡すことが出来る。コレだけ遮るもののない平べったい野っパラはそうない。結構良いポイントだ。

この他の山焼き絶景ポイントは薬師寺東塔,西塔が美しくシルエットになって映える、西ノ京大池辺り。こちらは昼から場所取り競争だとか。次回がんばろう。

終盤にかけての残り火が山稜をシルエットに写し出して美しい。約一時間程のショーを満喫した。
さて,帰るか、と機材をかたずけて、ふと見回すと、すでに辺りは漆黒の闇。どうやってここまで来たのか道も見えない。野っパラには街路灯もまばらにしかない。遠くのライトアップされている大極殿を目印に暗闇をセッセと歩いて、なんとか西大寺駅へ向う道に出ることが出来た。

しかし、暗闇の平城京は何か物の怪でも出そうな雰囲気である。異様に光輝く大極殿はまるで怨霊達のたまり場のように妖艶に漆黒の闇に浮き上がっていた。