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2013年8月24日土曜日

心の二上山 〜ホームとアウェイを分けるもの〜

関西を離れ、ここ東京に「戻って」はや2ヶ月。やっとホームに戻って来たのになんとも、エトランゼ感が強くて,いまだに調子が出ない。久しぶりの東京だから、関西との対比で、また新鮮な再発見や驚き、感動があるかと思ったが、意外にない。暑さと人いきれしか感じないこの夏....  感性が鈍化したのか? 特に週末の時間の過ごし方がなんとも所在ない。関西では時間の過ごし方なぞという観念はない程、大和路散策などで忙しかった。そういえば以前、東京にいた時ははどんなことして過ごしてたのか思い出せない。東京には色々刺激的なところが多いんだが、どれもいまや代わり映えしない気がする。確かに新しいもの,移ろい行くものは多いが、移ろわぬもの、不変のものはドンドン失せて行っているような気がする。

そういう意味では,変化の激しい東京には飽きたのかもしれない。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与え得るもの全てがあるから。」というサミュエル・ジョンソンの名言があるが、「東京に飽きた者は人生に飽きた者」なのか? ロンドンには不変の美、authentic valueがいたるところにあったが。

東京に戻ってくると、当たり前だが、ここには飛鳥の里の稲穂も彼岸花も、唐招提寺の甍も、伎芸天の微笑みもない。聖なる三輪山もそびえていないし、ヤマト王権の痕跡も感じない。なによりもあの二上山が見えない。もちろん、人ばっかりで「都会」の雰囲気はふんだんにあるが、ミナミを跋扈するヒョウ柄のオバちゃんや、上町や谷町のイトはんも見かけない。人目を憚らないケッタイなオッチャンもいない。歩道を爆走するママチャリもなく、日本一の私鉄、近鉄電車も走ってない。電車に乗っても、真っ黒に日焼けしたスポーツ少年達の傍若無人な「アホ話」も聞こえて来ない。なんか,東京に出て来たばっかりの若造の、早くも「もう田舎に帰りたい」感に近い感情なのかもしれない。

なによりも古代史紀行のブログネタに、(当然だが)行き詰まっている。せいぜい今やれる事は、以前モノしたブログを読み返したりして、歴史を観る視点を鈍らせないようするくらいだ。しかし、直木孝次郎先生の「古代を語る」シリーズを読み返しても、どこか遠い所の話のようで時空が縮まって来ない。写真の方は、入江泰吉マエストロの写真集を眺めてみるばかりで、せっかくのカメラも遊んでる。ガラッと雰囲気を変えて都会のブラパチまち歩き、という境地にもまだ至っていない。

振り返ってみると、あまり転勤が多いと,どこが自分のホームなのか分からなくなることがある。常に新鮮、と言えば新鮮だが、この年になると自分に合った,お気に入りの場所がだんだん決まって来るのかもしれない。東京は自分のキャリアアップ(昔風にいえば「立身出世」)、サラリーマン人生的な自己実現の舞台であるし、刺激的なホームグラウンドである。しかし自分の心のホームか?と聞かれれば、なんとなくすんなり「そうだ」とも言えない。かといって、故郷に帰っても,もはや居場所はない。自分の居場所はどこにあるのか。どこへ行ってもアウェー感がするようになってしまったのか?

いやいや、「自分が今いる場所で咲きなさい」なのだろう。「人生いたるところ青山あり、いや二上山あり」だ、と自分に言い聞かせる。



(乙巳の変後に遷都した難波宮から、はるか二上山の向こうにある飛鳥古京を偲んだ孝徳天皇。古代からこの風景は変わっていない。二上山は彼岸と此岸をわける結界なのだ)

2013年8月14日水曜日

筑前福岡から薩摩鹿児島への旅

 九州新幹線の開通で、博多から鹿児島中央までたった1時間20分で行けるようになった。鹿児島も近くなったものだ。子供の頃、鹿児島といえば、心理的には東京、大阪よりも遠い「異国」であったような気がしていたものだ。東京から夜行寝台特急ブルートレイン「はやぶさ」で博多駅に降り立つと、そこからさらに4〜5時間かけて西鹿児島まで。博多で降りる乗客のホッとした表情と対照的に、西鹿児島まで行く乗客の「まだ汽車の旅は終わっとらん」という充血した眼が印象的だった。私自身、博多から先のことはあまり考えきらんかった。熊本ですら「遠かあ」と思っていた...

 そもそも、人は「九州」とひとくくりにして語るが、九州は九州でも、福岡・博多と鹿児島では全く違う。よく「ご出身はどちらですか?」と聞かれて「福岡です」と答えると、必ずと言ってよいほど「ああ、九州ですか」と再確認するような反応が返ってきたものだ。私は「いや福岡です。つまり博多です」と改める。この返事には2つの内包するの意味があると思っていた。一つには、「九州」とひとくくりにしないでくれ。福岡と熊本と鹿児島はそれぞれ違う。二つには、福岡という町の九州における存在感の薄さ、換言すれば、福岡と言われてもピンと来ないので「九州」という大きな概念に包摂される「福岡」という捉え方に対する反発。せいぜい「つまり博多です」と言って個性を主張しようとするが、博多と福岡も実は違う町だから、なんとなくもどかしい。いまでこそ福岡は人口150万の九州一の大都会になっているが、ひと昔前までは門司や熊本、長崎、鹿児島に比べると単なる通過都市のイメージであった。

 「九州」というある種強烈なイメージは、おそらく薩摩隼人や肥後モッコスのような九州男児(反権力、しかし保守、男尊女卑、酒が強い等等)のステロタイプイメージに起因するものなのかもしれない。縄文人の子孫である熊襲・隼人のイメージだ。しかし、九州は実に歴史的文化的背景を異にするクニグニの集まりである。鎖国以降発展した長崎はもう一つの異文化圏だ。大分、宮崎は九州の中では少し影が薄いように思われているが、大分は豊後の大友氏中心に栄えたの瀬戸内文化圏。宮崎は薩摩島津氏の影響を強く受けた地域である。

 北部九州は、魏志倭人伝にでてくる「倭国」の世界だ。邪馬台国の位置が論争になっているが、いずれにせよ今の北部九州の玄界灘沿岸が大陸との接点で、稲作文化を始め、日本における先進的な弥生文化の発祥の地であり、後の邪馬台国連合の重要な国々があったところであることには変わりがない。ヤマト王権が本格的に北部九州、筑紫に支配権を及ぼすのは「筑紫の磐井の乱」以降だ。最初は九州全体を「筑紫」と呼んでいたが、のちに、律令制が確立する時期には、筑紫国(筑前、筑後)、肥の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)、薩摩国(薩摩、大隅、日向)に分けられて、「九州」の文字通り九つの国名が定められることになる。

 考古学的に見ると鹿児島や宮崎などの南九州は、朝鮮半島の影響を受けた北部九州の稲作弥生文化圏の延長というよりは、その以前の縄文文化圏の影響を後世まで引きずっているように思われる。黒潮に乗って、琉球・南西諸島経由で南方の文化が上陸した地域だ。飛鳥。奈良時代には「隼人」と呼ばれる人々が勢力を保ち、奈良時代も後半になってようやくヤマト王権・大和朝廷の支配下に入るという歴史を持っている。ちなみに記紀によれば葦原中津国である大和、日本発祥の地、天孫降臨の地は、なぜかこのまつろわぬ民「隼人」の土地、日向の高千穂であることになっている。一方、九州中央部の阿蘇山系に位置する熊本・菊池地方の土着勢力は「熊襲」と呼ばれる人々だ。3世紀半ばに中国の魏王朝から冊封を受けた北部九州の邪馬台国連合と対抗した、すなわち魏志倭人伝にいう「狗奴国」ではないかとも言われている。

 中世以降、鹿児島は、島津氏の領国支配の拠点となる。島津氏の出自には、源頼朝御落胤説、藤原摂関家筆頭である近衛家の荘園島津荘代官説、様々な説があるようだが、鎌倉幕府から、平氏の勢力が強かった西国九州をおさめるために派遣されてきた御家人であったのだろう。いわゆる西遷御家人である。また元寇のとき以降、任地である薩摩に本格的に定住し始めたと言われる。以来、曲折はありつつも薩摩、大隅、日向諸県郡と三州をおさめる君主として800年にわたってこの地に君臨した。このような例は日本史においても世界史においても希有であると言われている。

 しかも歴代名君が続き、「島津に暗君なし」と言われた。戦国大名として、一時は覇権を競った豊後の大友氏を破り、博多では大友氏、周防の山内氏の貿易利権を奪う勢いであったが、豊臣秀吉の九州平定作戦の下、黒田官兵衛の軍に破れ、薩摩に引きこもる。また1600年の関ヶ原合戦時には西軍に属し出陣したが、島津義弘は合戦に兵を出さず不動を保った。しかし西軍の負けが決まると、あの勇猛果敢さを歴史に残す敵中突破で鹿児島に帰国する。その後の徳川家康への恭順、和議工作に勝利し、本領を安堵され明治維新に至っている。この辺りが同じ敗軍の将となった毛利輝元と大きく異なる。中国地方の覇者であった毛利家は周防・長門二カ国に減封されて、長く苦渋を味わう。そしてその関ヶ原の恨みが250年後の幕末期、反徳川運動を爆発させる原動力となった訳だ。

 島津家は、江戸時代を通じて、徳川将軍家と浅からぬ姻戚関係を持ち、外様大名としては異例の二代の将軍の正室を出している。その一人が斉彬公の養女篤姫である。このような徳川幕府との関係から、幕末においては、倒幕一辺倒の長州とは異なり、幕府政権中枢に影響力を有していた。幕府に影響力を持つという辺りは同じ外様の土佐藩主山内容堂も同じスタンスであった。特に島津斉彬は先見性を持った英明君主である。彼の死後、引き継いだ異母弟久光の時代に起きた生麦事件などの行きがかり上、英国と戦った(薩英戦争)が、その実力を双方共に認めあい、薩英同盟を結んで、欧米の文化、技術を積極的に導入した。薩摩藩英国留学生を送り込んだのもこの頃だ。そして斉彬のような開明的な君主の先見的な領国経営、世界戦略と、能力に応じた人材登用が時代のパラダイムシフトの原動力となり、明治新体制を作り出した。

 これまでも薩摩藩は、鎖国政策下において琉球を通じて中国や南方諸国との貿易で大きな利益を揚げてきた。鉄砲はポルトガル人により薩摩領の種子島にもたらされ、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本への布教にあたってまず鹿児島にその一歩を記している。大航海時代、16世紀末のオランダで作成された日本の地図に都市名が記載されているのは、Miaco(みやこ、京)の他には、Cangaxuma(鹿児島)、Facata(博多)、Firando(平戸)、Sacay(堺)のみである。鎖国政策の徳川幕藩体制下においても海上貿易は活発に行われ(江戸幕府からみれば密貿易だが)、ついには琉球を薩摩藩領にしてしまう。江戸や京都といった「中央」からの目線では南九州の辺境の地である薩摩は、幕末には西欧列強の北上戦略の危機にもさらされており、外に向かって世界戦略を持たざるを得ない地政学的位置にあったといえる。

 話はかわるが、薩摩の二大英雄、西郷隆盛、大久保利通は古くからの盟友であったが、新政府内の政争で西郷は野に下り、西南戦争で悲劇的な最期を遂げる。大久保は明治新政府の中枢にあって辣腕を振るうが、やがては不平氏族に暗殺される。西郷が倒幕/維新を導き、大久保が新しい日本の仕組みを作った。しかし、地元鹿児島では、圧倒的に西郷さんの人気が高く、大久保は全く人気がない。西郷さんの子孫は今でも地元の名士であるが、大久保の子孫は地元には誰も残っていないそうだ。そういえば銅像一つない。最近になってようやく鹿児島中央駅前に「維新の群像」の一人として故郷に錦を飾ったが、このときも地元では大きな論争があったそうだ。故郷をあとにして中央で舵取りした大久保よりも、地元に帰って不平士族に担ぎだされた西郷さんの方が慕われる、という、中央政府を牛耳るようになった薩摩にあっても、なおアンチ中央意識はくすぶり続け、今に至っているのだろう。

 鹿児島の町を歩くと、他の城下町とは異なる空気を感じる。それはもちろん仙巌園などの島津氏の存在感や、西郷さんなどの維新の志士たちにまつわる旧跡、遺構が随所にみられることもあろう。まず城下町としてみると、鶴丸城は、城山を背負った平城で大きな天守閣などはない。しかも頑丈で無骨な石塀(石垣?)に囲まれている。昔の上級武家屋敷跡も石塀を連ねた堂々たる構えのものが多い。旧制第七高等学校跡や西南戦争ゆかりの私学校跡もその長大な石塀が残されており、歴史の移り変わりに関係なくその存在感を示している。白漆喰に瓦屋根といった典型的な城下町の趣ではなく、ここは石の文化の城下町だ。薩英戦争と戦災で町が破壊されているにもかかわらず、「石の町」は往時の薩摩の都の風格を今に残している。

 明治維新後の廃藩置県で、多くの大名家は、領国を離れ、華族として東京で暮らし始めたが、ここ鹿児島は、今でも島津家が様々な事業や文化活動の中心にいる。島津家の別邸であった磯御殿、仙巌園も未だに島津家が所有し、運営している。斉彬公の手がけた近代化プロジェクトの遺構である尚古集成館(機械工場)や異人館(紡績工場外人技術者寮)も島津家により保存運営されており、有名な薩摩切り子も現在の島津家が復刻させ、工房を運営している。

 以前、福岡に大名文化の痕跡はあるか、というブログを書いたことがある。福岡が黒田氏の城下町であった趣があまりにも薄れていると感じたので書いたものだ。今回福岡から鹿児島へ旅して、改めて筑前福岡藩と薩摩藩の違いを感じた。同じ外様大名、西南の雄藩と言われた藩であり、ともに徳川宗家との姻戚関係をも有する名家である。それが明治維新においては、それぞれにスタンスが微妙にずれて、薩摩は倒幕をリードした維新の功労者にして、新政府の主導的な役割を担うのに対し、かたや、福岡は最後の最後になって勤王倒幕派を大弾圧して維新に逆噴射する。維新直後には贋札事件なども起こし、版籍奉還の前に領国を没収される。そして新政府では福岡藩出身者は懲罰的冷遇を受ける。おなじ九州といってもこのギャップは大きい。

 黒田家は、江戸時代後期には世継ぎがなくて、他家からの養子が代々藩主を務めた。中でも蘭癖大名といわれた黒田長溥(ながひろ)は薩摩島津家からの養子で、島津重豪の13番目の子であった。島津斉彬の大叔父でにあたるが二歳年下で仲が良かったとされる。筑前福岡藩は、隣の肥前佐賀藩とともに、幕府から長崎勤番を仰せつかった藩で、長崎における西欧文化や技術にいち早く触れる機会に恵まれた。このように福岡、佐賀、鹿児島は蘭癖大名が育つ環境にあったと言えよう。薩摩藩は先述の通りであるが、肥前佐賀藩も鍋島直正(閑叟)は、藩内に日本で初となる反射炉を造り、高性能な大砲を製造した。また洋式の造船所を建設する等、藩の殖産興業につとめた。筑前福岡藩の長溥も開明的な君主で、父島津重豪や斉彬の影響を受けて先進技術の導入に関心を示し、中洲に反射炉をもうけたりしたが、肥前や薩摩ほどの広がりを持たず、福岡藩内の近代化遺産は、いまその痕跡すら残っていない。

 同じように西欧の文化技術に触れ、近代化に意欲的であったにもかかわらず、筑前は、先述の如く明治維新では薩摩、肥前においてかれてしまう。皮肉な対照を見せることとなった訳だ。薩摩の島津、肥前の鍋島、ともにもともと関ヶ原以前から地元に根を生やした一族である。長州の毛利もそうである。黒田のように、関ヶ原以降に他国から入国してきた大名とは異なる。いわば転勤してきたサラリーマン社長と地元のたたき上げ創業者社長の違いみたいなものを感じてしまうのは考え過ぎだろうか。




(尚古集成館。斉彬公の近代化プロジェクトの一つで集成館機械工場跡。石造りの洋風建築だ。今は薩摩藩の産業遺産の博物館になっている)




(復刻された薩摩切り子。ぼかしの技法は薩摩独自のもの。その美しさも価格も宝石並みだ。店頭在庫は限られておりすべて職人の手仕事なので、注文してから入手まで最低半年待つことになる。)


(撮影機材:Leica M+Summilux 50mm, Sony RX100)

2013年7月22日月曜日

Leica M(Type240)と復刻Nokton 50m f.1.4 〜夢のセレブコンビ〜

 Leica M type 240を使い始めて4ヶ月。途中、ストラップ用アイレットが組み立て工程における手違いで抜け落ちる可能性あり、としてリコール。3週間ほどドイツの実家に帰っていたが、何事もなかったかのように我が手元に戻ってきた。

 以前、ファーストインプレッションで、やや辛口のコメントを書き連ねたが、だんだん使い込んでいくうちに、手放せない相棒になっていることに気づく。不思議なカメラだ。確かに今風の「日の丸デジタルカメラ」と比較すると、まだまだな側面もあるが、そもそも、ライカはそういう方向を目指していないような気もしてきた。「差別化」といえば「差別化」であるなあ、明らかに...

 一番の「like!」は何と言っても、その画質。そして撮影直後の確認で、それを実感することを可能にさせた大型高精細な液晶モニターがいい。デジタルカメラ化した以上は液晶モニターの精細度は、撮影者の感性を左右する重要なデバイスだ。おまけのような画素の粗い小窓なら、ない方がいい。もちろんライブビューは必須だ。画像処理速度もすこしは速くなった。ソフトのバグはかなり取れたようだ。特にWBオートの改善、SDHCカードとの相性は大きく改善された。新しいCMOSセンサーも悪くない。後の細かい問題点は忘れた!?ていうか、どうでもよくなって来た。

 画質は、やはりレンズのよさに起因するのだろう。最新のSummilux 50mm, 35mmでの撮影が一番相性がいいようだ。絞り開放でのボケ味は何にも変えがたい。ピントの合っているところと、なだらかにボケてゆく背景との落差は、まるで3G画像のような立体感を再現してくれる。この辺が家電メーカ発想のカメラ造りと光学メーカ発想のカメラ造りの違いなのだろう。

 そこに最近、VoigtlaenderのNokton 50mm F.1.5の復刻版レンズがコシナから出てきた。オリジナルのNoktonはフォクトレンダーのレンジファインダーカメラ、プロミネントII用の高速標準レンズ。1951年に発売されたもの。当時もっとも明るいレンズで、その画の美しさは特筆ものであった。ただし、そのカメラボディー自体は凝りに凝ったユニークな設計であった。ライカやカールツアイス等と一線を画す独自技術を開発し,導入した、という歴史的遺産価値を感ずる名器ではあったが、実用的製品としては市場に浸透することなく、早い時期に消えていった。それだけにこの名レンズをLやM型Leicaで使いたいという要望が多く寄せられ、NoktonのLマウントが出された。しかしこれらは数が少なく、高値安定のコレクターズアイテムとして、今でも中古市場に滅多に出て来ない。私はオリジナル(プロミネント仕様)のNoktonを一個持っており、マウントアダプターを介してLマウントライカで使えるようにしている。レンズガラスは宝石のように輝き、金属ローレットの工作精度も美しい、まるで工芸品のようなレンズである。

 今回のコシナ復刻版Noktonは、一枚非球面レンズを入れ、コーティングを最新のものにした、現代風にいわばアップグレード復刻したもの。すごいのは、オリジナルと同じ真鍮にクロームメッキを施した鏡胴を用い、往年の堂々たる風格を取り戻したことだ。これをM240に装着するとずっしりと重い。ストラップはしっかりしたものを選ぶ必要がある。まして、リコールがあったようなアイレットが抜けたりすると、この「お宝コンビ」には破滅的な結果となる。

 しかし、M240にこのNokton 50mmの組み合わせ。何とも豪華なセレブリティーコンビではないか。その装着した姿は本当に美しく、「カメラとは、本来こういうものをいう」と主張してくれていて、うれしくなってしまう。レンズサイズは、Summilux 50mm F.1.4とほぼ同等で、カメラとのバランスも最高だ。開放f値も近いので、撮影結果を見るとどちらがどっちか判別しにくい。ややNoktonの方がボケ方が少なく、開放では周辺光量不足も若干あるので、それとわかる程度。このようにカメラ+レンズも道具としてのこだわりから入ると、作品もそれなりの品格を醸し出してくるから不思議だ。

 ライカは50mm、35mm単焦点レンズとの相性が一番だ。50mm一本だけ着けて撮影して巡ると、意外に、その焦点距離の「制約」にもかかわらず様々な画角を切り取れることに気づく。もちろん体を動かして、寄ったり、引いたりしなくてはいけないが、かつては50mmが「標準レンズ」であったことにはおおいに合理性があることを知る。そして今でも、50mmが「万能レンズ」であることを再認識する。私はどちらかというとズームの便利さに慣らされてしまた嫌いがあり、単焦点レンズでの撮影が苦手になってしまっている。もちろん単焦点レンズのボケを楽しむ心地よさを知っているつもりではあったが、どうしても体を動かさずに、レンズ鏡胴をまわして画角をかえるズボラな撮影スタイルに安住してしまっていた。

 ライカ+単焦点レンズという組み合わせは、特に時空を旅して歴史の「心象風景」を直感的に切り取るのにいいのかもしれないと感じ始めた。撮影には、あれもこれもと欲張るのではなく、潔さも必要なのだと。何よりもやっぱりNoktonやSummiluxのそのボケ味がなんともクラクラ来る。ボケは撮りたいものを浮き上がらせる効果とその後ろにあるおぼろげな何かを写し取る効果があるのだから、きれいなボケはとても大事だ。最短が70cmよりもっと寄れるとなお良いのに、などどやっぱり欲を出す自分がいるが...

 やはり、ライカは使い込んで慣れていくことが大切だ。そうすればオーナーの思い通りの道具に育ってゆく。写真を撮るとは、どういうことなのかをライカは思いださせてくれた。そしてスマホ、コンデジ時代だからこそ、道具や形から入る写真撮影の快感が希有のものとなる。 すっかりハマっている。

 ちなみに、このLeica M Type240、超人気で、バックオーダーをはかすことができず、納品まで9ヶ月待ち状態だそうだ。今、販売店では予約受付を中止している。そもそも量産型製造工程でないので,マイスター達が手を抜かずシコシコと作っている所が見えるようだ。しかも、ライカ社は日本向け製品をを7月から大幅値上げしている。理由は円高。というが、今までのプライスタグでも日本販売価格は米国販売価格と為替変換すると1ドル125円くらいになっているのに... おまけに、ハンドグリップやRアダプターなどのアクセサリー発売も7月予定が、9月に延期された。日本というカメラ大国、激戦市場でも強気なライカ社のプライシングと市場投入テンポ。こういうブランド価値を最大限生かした成長戦略もあるのだ。



(Leica M Type 240に復刻Nokton 50mm F.1.5で撮影。絞り開放から一段絞って)



(Leica M Type240に復刻Nokton 50mm f.1.5を装着した姿はバランスが取れていて美しい)



(復刻Noktonの金属鏡胴は、真鍮にクロームメッキした本格的なもの。ローレットの刻みも素晴しい出来。絞りリングのクリック感、ピントリングのトルク,ともに文句なし)



(こちらがプロミネントIIについてくるオリジナルのNokton 50mm f.1.5。レンズ側にピントリングが設けられておらず、絞りリングのみ。したがって、ライカに装着するには、ピントリング付きのマウントアダプターを使う)



(フォクトレンダー・プロミネントII。オリジナルのNokton 50mmはもともとこういう風に装着されていた。美しいクロームメッキの金属度120%のボディーに、大きなプリズムガラスブロックを惜しげも無く使った等倍ファインダーが目を引く。ピントは軍艦部左手のノブを回し、ボディー内のカムがレンズシャッターユニット全体を押したり引いたりして合わせる。35mmと70mmの交換レンズもあり、焦点距離によってユニットの繰り出し量を変える、という誰も考えつかないメカを搭載した複雑系ボディーだ)


2013年7月13日土曜日

天子南面す 〜遷都の思想〜

 伊丹から羽田に飛ぶとき、大阪市の上空を過ぎて河内平野、生駒山を越えると、やがて奈良盆地(大和盆地)上空にさしかかる。右方向南には飛鳥、吉野、紀伊山系を望み、右手後方に矢田丘陵。生駒山を、そして右前方に三輪山、龍王山、春日山など大和青垣山系,さらには遠く伊勢路を望む。左手には北摂から京都が見える。いつもここを飛ぶたびに思う事だが、ヤマト王権の変遷はこの範囲内での出来事だったのだと。もちろん、中国、朝鮮半島や、筑紫や出雲という、この世界から見ると遥か遠くの国との交流もあったが、3世紀三輪山の麓に生まれた三輪王朝、5世紀葛城山の西からやって来たといわれる河内王朝はこの大和盆地に京(みやこ)を築き、そして飛鳥古京、藤原京、平城京もこの視界の範囲内だ。

本格的な宮都建設、そして遷都は南の飛鳥古京から始まり、南北軸上を北上し、この視界の左手北にある平安京も、平城京の北、山城国に造営された。この間、天智天皇の大津京、聖武天皇の紫香楽京、桓武天皇の長岡京の例もあるが、大掛かりに造営された京はこの南北軸上に並んでいる。そこにはどのような思想、ロジックが存在していたのだろうか?

663年の朝鮮半島白村江の戦に敗北した天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京に遷すが、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、再び南の飛鳥に戻す。その後は、中華帝国、唐の律令制や皇帝制に習い、長安の首都計画を参考に、694年に藤原京(持統天皇)、710年に平城京(元明天皇)、784年に長岡京(桓武天皇)、794年に平安京(桓武天皇)がそれぞれ造営されるが、遷都の方位は子午軸上の北方を選び、方位の四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)相応の護る良地へとしている。

これは天皇を北極星にならい、自らの皇位を不動悠久の北辰、天皇大帝の神格と位置づけたものである。そして北位南面こそ皇帝たるもののポジションを示すものである、とした中華帝国の思想をヤマト王権の確立時期に導入したものにちがいない。まさに「天子南面す」である。

607年、聖徳太子が随の皇帝煬帝に使者を送った時に、その上奏文に記されていた「日出ずる国の天子、日没する国の天子に云々」という文言に煬帝が無礼な蛮夷のヤツ,と怒ったとされているが、この「怒り」は巷間伝えられるように「日出ずる国」「日没する国」に向けられたのではなく、「天子」という言葉にあったものである。即ち,この天下、宇宙に、自分以外にもう一人天子が居る,と宣言しているわけだから怒った。中華蛮夷思想の最たるものだが、それを知ってか、知らずしてか「天子」を名乗った倭国人もたいした度胸だ。日本は何時頃から中華帝国への柵封を求める朝貢国家を止めたのか、という疑問も出てくるがそれはまた,別の機会に解き明かしてみたい。

このエピソードが伝えるように、既に7世紀初頭には倭国に中国風の天帝思想、「天子南面す」という考え方が入り込んでいた。さらには中国風の都城造営の設計思想は、大規模な藤原京や平城京を待たずに、飛鳥の宮殿でも取り入れられ,小規模ながら大王(天皇)の執務、政務を執り行う館は南北軸上にあり。南面して玉座に座っていた。

以来、時代を下り明治元年(1868年)、日本の都は、初めて畿内を離れて東国、江戸に遷った。東の京(みやこ)すなわち東京と改称する。もっとも、これは天皇の東国への行幸であって、あくまでも御所は京都だという建前に基づくもの。正式には遷都の詔はないので、遷都ではないのだろうが。いずれにせよ初めて,南北軸を離れ、都が東に遷った。

明治新政府の考え方はもちろん欧米列強に負けない近代国家建設であるが、その基本的な権力基盤は天皇という権威に依存したものである。古代の天皇親政の復活、1867年(慶応3年)の「王政復古」である。11世紀初頭以来の長い長い武家政権の時代を一足飛びにさかのぼり、日本書紀がにわかに国史として表舞台に飛び出し、律令制時代の官制名称が復活し、天皇中心の国家観、皇国史観が復活した。長い間、文化芸能や有職故実をたしなむ京都のお公家さんが、政治の舞台に担ぎ出された訳だ。しかし、古代の遷都のロジック、「北位南面」の思想は引き継がれなかったようだ。新都東京の皇居は武家である徳川家代々の江戸城であり、大極殿も朝集殿も無い。

いまや、東京は1時間ほどで飛んで行ける近さだが、当時の東国は大和からは遥か遠い辺境の地であった。まして、今でも飛行時間13時間を要するアメリカやヨーロッパの国々は、唐天竺よりも遠い地の果て。その存在すら定かに認識し得ない魑魅魍魎の世界であったことだろう。こうして歴史を振り返ると、倭人、のちの日本人はこの狭い大和盆地を抜け出して東遷し、さらに日本列島を抜け出し、広い世界を知り、そこへと歩を進めて来た。しかし,やはりその原点はこの盆地にある。そんな日本人の箱庭的なDNAはなかなか変遷しないのだろう。なにしろ「豊葦原瑞穂の国」「うまし國ぞ秋津島大和の國は」であるのだから。

そんな事を考えているうちに、まもなく羽田に着陸となった。何ともあっけない
現代の旅..





(引用出典=『都城の生態』(岸俊男編「日本の古代」9、中央公論社、1987)
藤原京と平城京は南北の上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本の大道で、難波宮は東西の横大路で結ばれていた。












(奈良盆地の全景。北から南方向を望む。手前に見える長方形の敷地は平城宮跡。遥かに南に大和三山を望む。ここには藤原京が、そのさらに南には飛鳥古京があった。まさに平城宮は北位南面のロケーションだ。)

2013年7月5日金曜日

時空フォトジャーナリズム 〜現代の都会のなかに古代をイメージする〜

写真というものは、基本的には被写体に感動し、惚れなくては写せない。要するに撮りたいと思うものに出会うことが必要だ。とくに歴史写真は、風景やその現場の空気の中に、過去の出来事の痕跡や、人間の情念や、文化の残照を感じ、感動する要素が見つけられなければシャッターを切れない。写真はテーマに沿った被写体を探し出す事に始まる。

私は、日本という国の発祥の時期である、弥生後期から飛鳥、奈良時代の歴史的な出来事や当時の人々の心象風景を写真に切り取り、時空を超えてその時代を表現しようとしている訳であるが、しかし、これは容易なことではない。第一、過去の出来事は既にその場に形を持って存在しないから、報道写真のように「決定的瞬間」を撮影するわけにはいかない。今、可視化されるのは、名所旧跡を示す石柱や、現存する歴史的な建造物、古墳や廃墟、仏像や美術品、出土した土器や金属器のような考古学的な遺物だけだ。ないしは歴史学者垂涎の古文書のたぐいだ。後世の人が著した歴史書もそうだ。

こうした、いわば部材だけを取り上げて、ただ撮り続けると、それはなにか記録資料的な写真、ないしは観光ガイド的な写真になってしまう。見栄えの良い写真や、説明的な写真は世の中にあふれているから、今更自分がそこへ行って撮らなくてもよいだろう。せいぜい「私もそこへ行ってきました」的な証拠写真となるのが関の山だ。しかし、現地へ赴き、その「場」の風景に身をおくと見えてくるものがある。想像をたくましくして、現場に立つと、その辺りの空気や、たたずまいのなかに古代人の息吹や心の動き、文化の残照が漂っている。いやそれを感じることができることがある。やはり「そこ」に身をおいてこそ感じ取ることができるものだ。

これを「時空フォトジャーナリズム」と(勝手に)呼ぼう。ただ、それを写真というビジュアルなメディアに切り取ろうという訳だからやっかいだ。一見きわめて写実的表現のようであるが、実は観念的表現である。客観的な史実に基づく現況証拠写真であるよりは、想像をたくましゅうするためのイメージを求めた情況写真であったりする。すなわち、歴史の具体的表現ではなく、抽象的表現である。

まして古代人がご神託を得たという神や、スピリチュアルな経験や、非業の死を遂げた人物の祟りや怨霊など、その具体的な姿を写真にしようもない。おそらくは天変地異などの自然現象や、山や河などの地形、一木一草、水、気、空などに神や霊魂や祟りを感じたのであろうから、そうした光景を用いて表現するしかない。大和盆地は天気の変化が激しい土地柄だ。ある意味その変化が美しい。二上山の雲間から降り注ぐ夕陽の光芒、といったシチュエーションが典型的な表現だろう。それでも画にする事はかなり難しい。

さいわい大和盆地には記紀伝承地や万葉集に歌われた美しい山河や田園、自然景観がまだ残されているので、現代の風景からかつてのヤマトの景観を想像するのは比較的容易である。だから大和が好きなのであるが。こうした時空を超えた、連続的な風景の共有が可能であることは、今となっては得難いことである。尊敬する入江泰吉先生の写真には,そうした時を超えた光景が写し出されている。そこに古代の飛鳥や奈良の姿が写っている。

しかし、こうして今、現代の東京へ帰ってきて、雑踏の中を歩いてみると、この町はあまりにも変貌しすぎてしまっている。河口に広がる寒村だった江戸は、400年前の徳川家康の江戸開府以来、営々と築き上げられ、当時としてはロンドンやパリを超える巨大な都市に成長した。幕末の動乱期の戊辰戦争による焼き払いは避けられたものの、東京と名を変えて以降、関東大震災、東京大空襲、そして戦後の高度経済成長期の地上げで、街の様相は一変する。今でも人口の一極集中で、中空に、地下に、海上に、留まる事無く都市改造が進む東京。

東京では、古代の人々との時空を超えた風景の共有、心象対話はもはや不可能である。不変の景色の代表である富士山でさえも、東京から見えるポイントは限られてしまっている。わずかに富士見坂などの地名に痕跡を残すのみだ。古代までさかのぼらなくても、たった150年前の幕末から明治期に、御雇外国人ベアトが愛宕山から撮影した江戸市街地の風景(写真参照)も、今はまるで全く別の都市か、と思われるほどの姿に変貌してしまっている。まして万葉集に歌われた武蔵国の草深き野山を駆け巡るあずまびとの姿を空想することは難しい。

さて困った。写真で表現する古代の心象風景。ここ東京ではあきらめねばならないのか?東京に古代史の痕跡を見つけるコトは出来るのか? 記紀や万葉集の世界を垣間みる事は出来るのか? 力強い古代人の美の残照を見極めることは出来るのか? かなりハードルが高そうだ。空想力、写真表現力の限界を感じてしまう。




(ベアトが愛宕山から撮影した江戸の町の景観。大名屋敷の甍の連なりが美しい町だったのだ,江戸は...)



(現代の新橋駅烏森口周辺。旧新橋停車場は、駅の向う側、汐留シオサイトのある辺りにあった。どう見てもこの町から古代の武蔵の国を想像するのは難しい。)

2013年6月27日木曜日

東下りの旅 〜ナニワの皆様お世話になりました〜

 いよいよ大阪を去る日が来た。引越し荷物もなくなり、ガランとしたアパートに別れを告げる。海外を含めて転勤ばかりの人生で、何回目の引越だろう。数えた事もない。数える気もしない。慣れているとはいうものの、いつも、この何にもなくなった部屋の寂寞感にはヤラれる。

5年過ごしたナニワの地。父や祖父母の過ごした北山町よサラバ。街には地元の氏神さん、生国魂さんの夏祭りの開始を告げる幟旗が翻る。いつもの街角のお地蔵さんには今日も花が手向けられている。やがて地蔵盆の季節だなあ。私の「時空トラベラー」大和路歴史探訪の玄関口、近鉄大阪上本町駅も、単身赴任者御用達の近鉄百貨店デパ地下もさようなら。オカズ大盛りにしてくれたオバちゃんさよなら。学生で賑わうコンビニもまた来る日まで... 皆さんお世話になりました。お元気で。

東京へ行ったら、これからの「時空トラベラー」は「お江戸でござる」バージョンになるのかな? ヤマト古代史探訪は奥深い。まだまだ多くの謎が解けていない。この旅に終わりはないのだが... なんとか続けられないか? 廃刊の記紀、じゃなくて危機(いかに漢字変換が「記紀」優先であったかわかるなあ)か。チョット落ち着いたら、これからの編集方針を考えよう。

さて出立の時間だ。上方を離れて東下りの旅へ.... いや現代の東京へ。ホナまた!よろしゅうに!



(通勤途中の上六のお地蔵さん。おかげさまで無事勤め上げることが出来ました。有り難うございます)



(また生国魂さんの夏祭りの季節がやって来た)



(伊丹を離陸。やがて羽田だ。夕景が美しい...)

2013年6月12日水曜日

そうだ鑑真和上に逢いに行こう!

 いよいよ関西生活もカウントダウンに入った。そういう時期になると、何かやり残した事が無いかいろいろ考える。日頃やっておけば良いものを,いざ時間が無くなるとバタバタするのが凡人の凡人たる所以。もちろん関西でまだ行ってない所は多い。これを全部制覇するのは5年では難しいし、また後の楽しみにもとっておきたい所もある。しかし、どうしても外してはならない事を一つ忘れている。そうだ、鑑真和上に会いに行こう!

金堂の平成の大修理が成った2009年に唐招提寺を参拝して以来,エンタシスの列柱と天平の甍という建築美を眺めに何度も訪問した。御本尊の盧遮那仏も拝観させていただいた。古代蓮の神秘的な美しさも楽しませていただいた。しかし、肝心の開祖、鑑真和上には一度もお会いしていない。ご真像は毎年一回6月6日の開山忌舎利会の前後三日間だけに特別開扉されている。なかなかお目にかかれないので、今年は鑑真和上像の新たなレプリカが作成され、初めて一般に公開された。


尊敬する鑑真和上にご挨拶せずに関西を離れるわけにはいかない。鑑真和上像は御影堂に東山魁夷画伯の障壁画に囲まれて鎮座ましましているが、例年その特別開扉には大勢の人が押し掛けるという。どうも静かに和上と対峙したい時に、押すな押すなで落ち着かないご「見学」は意味が無いと思い、なかなか足が向かなかったが、いよいよこれが最後なので意を決して唐招提寺に向った。

当日は週末にもかかわらず意外に訪問者は少なく、ご真像にも並ばずにゆっくりと対面することが出来た。ご尊顔は写真でしか拝見した事が無かったが、想像通りのもの静かで奥深い佇まいである。和上が経て来た艱難辛苦が忍ばれるが、表情にはその片鱗すら見せない静溢さがある。しかし,その奥に強い意志を感じる事が出来る。周りで参拝している人々も、一様に静かに手を合わせている。和上のご遺徳の為せる技だろう。無駄な言葉は不要とばかりの存在の重さだ。新しい像は開山堂に安置されていて、ガラス張りの堂内におわします。いずれも写真撮影禁止。寺院での堂内撮影禁止は、私としてはいつも残念に思う事だが、今回ばかりは心のフィルムにしっかり焼き付けることが出来たので満足である。

唐招提寺は東大寺や薬師寺などの天皇の勅願で開いた官寺ではない。また藤原氏の開いた興福寺のような氏寺でもない。中国から一身を投げ打って日本における仏教教義の普及のために5度の遭難にも屈せず渡海した鑑真和上の精神を受け継ぐいわば戒律の専修道場である。政治権力の安泰といった動機から一線を画した寺である。一族の繁栄と安寧といった動機とも無縁である。また後世の現世利益を求める庶民のための寺でもない。そのようななんらかのご利益(ごりやく)を求める心を超えた普遍的、哲学的、スピリチュアルな場だ。

名誉欲、金銭欲、物欲煩悩留まるところを知らず。私(わたくし)を捨てて公(おおやけ)のために生きる。世のため、人のため、真理のため、という気高い生き方を忘れてしまった今の自分に対する戒めとなる訪問であった。よかった、鑑真和上にお会い出来て。今、来し方行く末を振り返る人生の転換点に立ち、その時期に敢えて俗世の垢にまみれた現代の都に再び還って行く身にとって、この一瞬はかけがえの無い精神浄化のプロセスであった。




(若葉して おん目のしずく ぬぐわばや  芭蕉)






















































(緑がだんだん濃くなって行くの西ノ京、唐招提寺辺りを散策。カメラはLeica M (Type 240)+Summicron 50mm. Fujifilm X-Pro1)