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2019年4月13日土曜日

万葉集とは? 〜歴史書なのか文学書なのか〜

 

大伴旅人の万葉歌碑
坂本八幡宮境内
背後には太宰府政庁跡が広がる

坂本八幡宮
大伴旅人の居館跡
ここで万葉集巻の五の「初春の梅の宴」が催された。


  山本周五郎の講演集に印象深いものがあった。いわゆる時代小説について語ったものだ。曰く、今我々が知る関ヶ原の戦いも大坂の陣も、権力者、為政者の視点で語られた歴史的資料に基づく知識である。こうした歴史書は出来事を淡々と(客観的にではないが)記述して記録してゆく。一方で、こうした豊臣一族の運命を揺るがすような出来事が起きている大坂城の外では、道修町の商家に奉公する丁稚はその大坂城を見上げながら、田舎の父母を思い、日々の暮らしの中の喜びや悲しみに日々を過ごしている。そうした時代背景における日常の私的な出来事と私人の心情を描くのが小説であり文学である。歴史書には庶民の生活や私的な出来事は一切語られない。これが歴史書と文学書の違いだ、と。

 古代倭国、日本に思いを馳せ、時空を超えて旅する我が身を振り返ると、その時代を知るよすがとなるものは、主に歴史書や文書(もんじょ)史料、または考古学資料であることに思いが至る。それらの歴史書に記されている出来事と、大和路や筑紫路を旅して見る風景を重ね合わせ、当時の人々の心象風景を求めようとする。しかし、そこには山本周五郎が言う様に、庶民の暮らしや思いを見出すことはできない。歴史書に名を残す高位の身分の人々であってもその私人としての心情に触れる機会は少ないことに気づく。そのような事どもを文字で記された「文書資料」はないものか?7世紀〜8世紀の古事記や日本書紀といった「歴史書」は、「天皇」(この称号もこの時期生み出された)による「日の本」(倭国改め)統治の正当性を内外に訴えるために編纂された。すなわち権力者、為政者による彼らのための正史である。これまでの中華王朝への朝貢、冊封体制に入ることで倭国の統治の権威を保証してもらうという、東アジア的世界秩序(大中華宇宙)から脱して、(唐の文化と律令システム、統治機構、都城経営とを必死にコピーしながらも)唐からは独立した「日の本」(小中華宇宙)を作ろうとした。内外に、我が国は中華世界において朝貢/冊封で成り立つ国ではなく、天神の子孫に依り建国された(中華帝国とは別の起源を持つ)国である、ということを宣言した「政治的な文書」である。

 では同じ時期に編纂されたという万葉集はどういう文書(もんじょ)なのか。歴史書なのか、文学書なのか。その成立には謎が多い。舒明天皇の時代7世紀初頭から、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱という歴史的事件の時代を経て、平城遷都、律令制の整備、奈良時代中葉までの約130年の間に詠まれた歌、約4500首20巻を撰録している。とりわけ巻一、二は天皇の御代に沿って時代順に編纂されている。天皇の治世や大和国の讃歌が多い。しかし国家の統治理念や為政者の天下国家に関する意思や理念の表明の書という体裁ではない。全体としては天皇から名もなき庶民まで多様な読み手の歌が採録されている(「詠み人知らず」が約2000首ある)。歌は「雑歌」が多く「相聞歌」「挽歌」となり、天皇讃歌だけではなく恋の歌や死者を悼む歌など私的な心情を歌ったものが多い。しかもそれほど体系的に編集されていない。後になるほど、別の選者が編集し、しかも前の編集を改変せず、いわば後から建て増ししたような構造になっている。万葉集は誰のイニシアチブで、どういう意図のもとに撰録され、編纂されたのか不明な点が多い。誰が「万葉集」と命名したのか不明であるし、「万葉」の意味するところも、悠久の時間の流れを言っている、とか。多くの言の葉を意味しているとか、後世色々な解釈がなされている。そもそも、のちの古今和歌集のように、編者の意図や年代が述べられた「序文」がない。少なくとも古事記/日本書紀のような「歴史書」が、当時の時代背景の下で意図を持って編纂されたのとは異なる成立経緯を持っていそうだ。

 先述のように、舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻にはそこには統治者、すなわち天皇やその宮廷への賛美の歌は多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王のような宮廷歌人である。さらに天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った下級官僚や地方官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持などの高級官僚(しかし藤原仲麻呂との争いに巻き込まれ越中や地方に左遷された)が中心となったが、「詠み人知らず」の歌も多く採られている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民であろう。特に東国の東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が家持によって撰録された。こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく(家持は軍事部門の高級官僚であった)、万葉集を最終的にまとめたのは家持ではないかとも言われている。「ひらがな」「カタカナ」もない時代、漢文、漢籍の素養がなければ言葉や歌を文字に表すこともできない時代にまとめられた万葉集である。漢字の訓読みで和語を表現する、漢文とも和語ともつかない、用法もバラバラな「万葉仮名」の和歌集である。5−7を基本とし、長歌では、これを繰り返し、最後を5−7−7で締めるという和歌の形式を生み出しているのだが、何とも雑然としていて洗練された感じではない。むしろ素朴さが残る歌も多い。のちの「ひらがな」「カタカナ」が発明された平安時代前期に撰録された古今和歌集のように、勅撰で整然と編纂され、洗練された流麗な文体の和歌とは異なる。

 万葉集の後期(家持の時代)になると「万葉集」に求められる役割、その編集方針に大きな変化が現れるようになったと言われる。宮廷において万葉仮名による和歌が徐々に衰退し、漢文のよる漢詩が主流になっていった。このため、先述のように後半になるにつれ万葉集には宮廷讃歌のような歌よりも、私人の目線での心情を歌う個性的な歌、防人や庶民の歌が増えてきた。このころの撰録には家持の果たした役割が大きい。しかし、晩年の家持の歌は一首も残っていない。平城京での政争(藤原仲麻呂との)に巻き込まれた家持の政治的な抹殺のせいだとも言われているが、謎の一つである。最期は赴任先の多賀城でひっそりとこの世を去っている。そして「万葉集」は、はやくも平安時代になると「万葉仮名」を解読できる歌人すらいなくなっていたため、勅命で「万葉集の解読」作業が進められたほどである。和歌が再び宮廷で読まれるようになるのは平安時代の古今和歌集の時代になってからだという。このように万葉集は「歌による歴史書」という側面と、最初期の「歌の歴史書」という面を併せ持つ歴史文書(もんじょ)とも言えよう。一方で私人の心情を歌った日本初の詩歌集、和歌集であることから「文学書」とも言える。初期においてこうした詩集の編纂に何かしらの意図があるとすれば、中国には古来より五言絶句のような漢詩があり、日本の当時の教養人も漢詩を読んだ。しかし一方で日の本にもこれに相当する独自の詩、歌があるべきだと考えたのかもしれない。これまでの歌は定型詩ではなく、古事記などに見える素朴な不定形の口承による歌謡であった。そこで新たな5−7調の定型詩を生み出し、漢字を和語の音に当て字として文字で表現する。これを広めて撰録し、歌集としようと考えたのだろう。そこに「近代的文化国家」日の本を宣言しようという意思があったのかもしれない。しかし、見てきたように時代を経るに従って、そうした国家の意図を離れた「文学作品」へと変遷していったように思える。

 新元号、令和はこの万葉集巻の五、太宰府大伴旅人の館で催された新年の「梅の宴」の歌三十二首の序文から採られた。

 「天平二年正月十三日に、帥老の宅に萃まりて、宴会を申べたり。時に、初春の月にして、気淑く風らぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は颯後の香を薫らす。(続く...)」

 こうしたことから、わが国初の和書からの出典だと話題になっている。一方で、いやいやこれとて漢詩の「蘭亭序」の形を真似たものだ、とか、マスメディア、SNS上にいろんな解釈が出て、それぞれにいろんな政治的な意図を読み取ったり、歴史観をを言い募ったり、なかなか賑やかだ。まあ、選定にあたっては我々には計り知れぬ色々隠されたストーリーはあるのだろう。しかし、今回は、同じ和書であっても、先述のように為政者の政治的な意思の表明としての「歴史書」である古事記/日本書紀からではなく、日本最初の和歌集「万葉集」からの出典だという点は親近感が持てる。かと言って伝統の漢籍からの出典でないことへの過剰な好感や反感、いずれにも与しない。もともと日本の古代の文書は、古事記にせよ、日本書紀にせよ。万葉集にせよ。漢字を用いて書かれているのだし、背景には日本人が倭人時代から尊敬し、学び続けてきた中華文化の影響が色濃くあることは否定できない。そもそも万葉集にも多くの漢詩や漢文の序文が記述されており、この「令和」も、先述のように梅花の宴の歌三十二首「序文」から引用されたもので、これは漢文で書かれている。今更「漢籍の影響を排した」ということは当てはまらない。そもそも「元号」自体、これまでも説明してきたように中国の歴代王朝の元号制度を我が国に導入したものではないか。しかも、我が国は、今も漢字を用いる漢字文化圏の国だ。ヨーロッパ諸国がギリシャ語やラテン語文化圏の国であるという文化的なルーツを共有しているのとどこが違うのか。現在の国家観で感情的になること自体ナンセンスだ。

 しかし、それはそれとして、令和は佳き元号だと思う。英語に訳すと「令:beautiful, 和:harmony」だそう。元号は皇帝が自分の支配する国家/人民/時代に対して為政者の目から国家理念を訴えるものである、というこれまでの伝統を考えると、今回の令和にはそうした意味合いは感じられない。「和を命令する」と読めるから「上から目線」だと評している人がいたが、それは引用元の意味を十分に理解していない恣意的な解釈だろう。

 都を遠く離れた筑紫の太宰府。大宰の帥(長官)大伴旅人の館で、初春の令月(麗しき月)に山上憶良、沙弥滿誓など太宰府官僚、国司等の面々が集う。庭には中国からもたらされた外来の梅が咲き誇り、「諸君、庭に咲く梅の歌を歌いたまえ!」との旅人の促しを皮切りに、和やかに歌い交わす。そんな「梅花の宴」の歌会の場面である。そこには父親の赴任に同道したまだ少年であった旅人の息子、家持も同席していたに違いない。彼らは時として旅人の館に集まり、酒を酌み交わし、楽しく談笑し、はるけき都平城京や、生まれ故郷の飛鳥に想いを馳せる。亡くなった妻への思いをうたう。旅人と親しかった筑前国守として太宰府に赴任していた山上憶良は筑紫で見て回った庶民たちの暮らしの貧しさに心を寄せ、庶民の日常に目を向けた歌を多く読んだ。その中から子を思う心を「子等を思ふ歌」に託す。太宰府で詠まれ、万葉集に採録された歌は200首に及ぶ。万葉筑紫歌壇と言われる所以である。そこには権力中枢にいて上から目線で天下国家を論じる空気はない。中央権力を離れた地方に身を置き、「歴史書」には描かれない情感の世界が語られ、太宰府官僚ではあるが一人の歌人の姿があるだけだ。まさに「令和」はそういった文学作品としての万葉集からの引用だと言って良いと思う。もっとも元号選定にあたった現在の政権中枢の人々に、どのような古典に対する理解と造詣があったかは不明であるが。

 これから「時空の旅人」には万葉集が離せない旅の友になるだろう。詩歌は和歌であれ漢詩であれ、当時の人々にとって不可欠のコミュニケーション手段であった。特に高級官僚や貴人にとっては詩歌の素養と表現力は絶対的に求められる基本能力であった。今で言えばメール、ブログ、SNSのようなメディアを想起させるが、この短い言葉による簡潔なメッセージには単なる情報だけではなく情感や暗喩、さらには霊力まで込められているとさえ考えられていた。言霊の力が我を古代史の真実へと導き給うであろう。

 「磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸(まさき)くありこそ」 

柿本人麿


大宰大弐紀男人の万葉歌碑
梅花の歌三十二首の冒頭の歌
「正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき
終へめ」

筑前守山上憶良の万葉歌碑
「子等を思ふ歌」
学業院跡

大伴旅人居館があった地区は大宰府の上級官僚の居宅街であった。
今は「花屋敷」という小字名を持っている
「梅は鏡前の粉を披き...」
大伴旅人居館跡界隈

「遠の朝廷」の栄華を偲ぶ大宰府政庁正殿跡の礎石

大宰府政庁跡
政庁正殿から南面す
大宰少弐小野老の万葉歌碑
この有名な歌は大宰府赴任中の小野老が寧楽の京師を偲んで歌ったものである
大宰府政庁跡