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1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。 London, T.Fisher Unwin刊行である。 |
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フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia) |
これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げてきた。この二つの作品は、以前紹介した通りノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったりする文学作品である。今回紹介する17世紀の「冒険小説」はそのようなフィクションではなく、16世紀後半の大航海時代に起きた実際の国々の出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションの性格を備えている。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり人から伝え聞いた話も語る(見聞録)。しかし時に事実の中にロマンを語り、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。後世の人間にとっては「歴史書」でもあり「文学書」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリーである。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」と自己主張する。自己承認欲求の高い人間はいつの時代にも存在する。そして間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人にとって「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。
ピント『遍歴記』とそのインパクト
その「冒険小説」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)の『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、実際にインドから東洋を股にかけて旅した冒険商人であった。その自伝であり東洋見聞録である。ピントは帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。しかしピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後「遍歴記」はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』(1897年の復刻版)である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの冒険小説とは異なる。しかしこれはかなりの粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだという人もいる。そういう意味でこれも「冒険小説」だと言って良いのかもしれない。一方で、実際に東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、その内容も必ずしもホラ話や伝聞による記述ばかりとも言えない説得力を持っているという人もいる。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。
この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、ザビエル伝などキリスト教布教活動や、スペイン/ポルトガルの航海、海外での植民地獲得や商業活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。東洋への関心が高く、ポルトガル人の商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの「東方諸国記」(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの「東方案内記」が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。このピントの「遍歴記」もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の著作であった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本にサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳「ザビエル伝」は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。
2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳。
021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録。
日本渡航関係記事
ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が「種子島」であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。合計で4回日本に渡航したとしている。
第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ。「日本発見」の瞬間だ。種子島の王Nautaquim(種子島時堯のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで製造することができるようになり、やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って鉄砲事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。
第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話で、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し。豊後府内に向かう。しかし豊後の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人を改宗させ、その「Anjiro:あんじろう」をザヴィエルに引き合わせたのは自分だとしている。
第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え中国Sanchaoへ渡航。ピントは別れてSanchao経由でMalacaに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡したとする。その中で布教のための神父派遣を要請。
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に記述されており、ピントの記述と同じである。どこまでが伝聞でどこからがピントの実体験なのか不明な点が多い。このころザヴィエルに臣従しイエズス会に帰依し、多額の寄進をしたのは事実と考えられている。また同時期に日本にいたことも確かであろう。
第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?)の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この記述は実体験によるものと考えられている。イエズス会記録にもある。
その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、1583年に没している。
『遍歴記』の史料としての評価
彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」、さらには1549年に「アンジロウを引き合わせザビエルの日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ここが「あのジパングか!」と。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれるレポートはヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。ただ自身の歴史への貢献を売り込むために演出したフシもある。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、ポルトガル側の記録や書簡があまり残っていない出来事で、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』には」その内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。
その時ピントは種子島にいた?
本書に関して最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」であるが、ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲の日本への伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。『鉄砲記』は江戸時代初期の1626年に刊行され、100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者五王と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると五王に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、これが現在ではもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?彼が主張するような「私が初めて日本を発見したポルトガル人だ」とか「鉄砲伝来に立ち会っていたポルトガル人だ!」という根拠は見つかっておらず、その事実も確認できていない。上記の史料にもピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいたかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。ただ『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、ピント自身が「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、彼が種子島に渡航したことが根拠のない作り話とも言い切れない。東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、その途中で種子島に漂着し、やがては日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ポルトガル人との交易も最初はピントのような冒険商人と中国人、日本人などとの私的(?)な交易、海賊行為から始まった。やがて1567年に平戸、長崎に来航し、正式に中継貿易を始めることに繋がっていった。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、史実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。「その時ピントは種子島にいた!」で良いではないか、という気分になってきた。
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1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙 |
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ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船 |
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アジア人 |
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インド以東のアジア図 日本は左上に位置する |
以下に掲載する書影は、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。
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こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊 天理図書館善書復刻版 |
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「遍歴記」表紙 |
参考過去ログ: