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2021年12月12日日曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第一章「バテレンの世紀」 〜ポルトガル人/スペイン人の日本見聞録〜


フランシスコ・ザビエル
日本で描かれた肖像画
大正9年に大阪府茨木市の民家で発見された


ポルトガル船入港




「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」へ

ヨーロッパと日本の最初の出会い(ファースト・コンタクト)は、1543年のポルトガル人の来航(種子島漂着、鉄砲伝来)、それに次いで1549年のイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日とキリスト教布教に始まる。その16世紀中葉から17世紀中葉のキリシタン禁教令、バテレン追放令までの約100年は、ポルトガル人と共にやってきたイエズス会の宣教師(バテレン)が日本と出会い、日本人と濃密な交流を持ち、30万人のキリスト教信者を獲得し、彼らがヨーロッパに日本情報を盛んに発信した時代だ。これを渡辺京二は「バテレンの世紀」と呼んでいる。この時代の主役はポルトガル人とスペイン人であった(日本では「南蛮人」と呼んだ)。なかんずくバテレンによるキリスト教布教が日欧のファーストコンタクトのエポックであった。これに入れ替わるように、1600年のオランダ船リーフデ号(ウィリアム・アダムス等)の豊後漂着を皮切りに、17世紀初頭にはオランダ人、イギリス人がやってきた(日本では「紅毛人」と呼んだ)。彼らはポルトガルやスペインなどのカトリック教国と争う新興のプロテスタント国の人間だった。彼らはキリスト教布教よりも交易を望み、当時の日本の為政者(家康)に受け入れられた。オランダ東インド会社やイギリス東インド会社が平戸に商館を置いて以降、ヨーロッパと日本の交流の新たな主役となった。すなわち宣教師:バテレンに代わり、商館長:カピタンが主役となり、バテレンによる「布教」からカピタンによる「交易」が日欧関係の主題となる。したがって「バテレンの世紀」に対する「カピタンの世紀」と呼んでおこう。やがてイギリスは日本から撤退し、宣教師とともにポルトガル商人やスペイン商人は追放されて来航も禁止され(いわゆる鎖国)、日本とヨーロッパとの交流はオランダが独占することとなった。日本にとってはオランダが西欧文明への唯一のコンタクトウィンドウとなる。これが幕末まで240年続くわけだが、この話は次回以降にすることとして、まずは「バテレンの世紀」の話から始めたい。


世界史の視点で日本史を見直す

東西文明の邂逅、日欧交流史のファースト・コンタクトにおいて、その主役がバテレンからカピタンに入れ替わってゆく時代の日本を「ヨーロッパ人の目」という視座で少し追いかけてみたい。これは単に日本人が大好きな、「ウチとソト」意識や「外人は日本をどう見ているのか?」みたいな関心からではなく、日本の歴史を国内の史料中心の「日本史」という括りで振り返るのではなく、世界史的視野で振り返ること。そして「異なる視点による記録」が、日本の歴史の新たな側面を描き出してくれること。この二つの理由からだ。こうした視座をもって歴史を俯瞰してみると、例えばバテレンからカピタンの時代への変遷は、ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの争いの日本における反映とだけに片付けられない側面を持つことに気づく。彼らの記録を読んでみると、こうした変遷は日本の為政者、家康の強かな外交戦略の反映であったことがわかってきた。スペイン人やポルトガル人が著した書物では、家康は残忍で強欲な暴君として語られているが、オランダ人やイギリス人が著した書物では、開明的でグローバルな視野を持った名君として語られている。家康は確かに残忍でもあり、開明的でもあったろう。その両面性に家康の統治者としての性格と意思が見えてくる。


記録化された情報という価値

この間の事情については、イエズス会もオランダ東インド会社も、日本での活動に関する膨大な記録を残している。これは幕末のセカンド・コンタクトの時の欧米人による数々の記録が残されているのと同様、ヨーロッパ人は、現地での日々の活動状況、見聞した出来事を日記に記述し、上層部へ報告書を送り、手紙を書いており、当時の生々しい記録として残している。こうした文字に記された記録は、バチカンやオランダ、イギリスの公文書館/大英図書館、ポルトガル、スペインの図書館に今でも保存されていて、貴重な第一次史料として歴史研究に欠かせないものとなっている。その情報量は、日本側の日欧交流史関係の文献の量をはるかに上回っているだけでなく、その質や内容も当時の日本に関する詳細な報告が残されている。こうした在外の文献情報はこの時代の日本史を研究する上でも重要な史料である。これらの文献や情報を分析研究することにより、日本のいわゆる「鎖国」政策の実情や、家康の外交戦略の実相が見えてくる。

また、いわば組織としての「公式記録」のほかに、ヨーロッパから遥々やってきた数多くの航海者、冒険者(時には海賊)や、宣教師、商人などが、自分達が初めて訪れた未知の国々、地域での見聞や、人々との交流に基づく体験を記録として残している。こうした未知の国々からもたらされる「情報」は、そこからもたらされる産物や交易による富にも勝る価値を持っていた。ヨーロッパ人が世界に目を向け始めた当時の世相を反映して、こうした未知の世界への冒険譚は、本国では非常に人気があり、出版事業としても成功したと言われている。実際に現地へ赴いて体験した実録ばかりでなく、モンタヌスのような地理学者で大作家による探検物語もベストセラーとなった。また、ピントのような「冒険野郎」のどこまでが本当なのか不明な実録ものも人気を博した。スウィフトの「ガリバー旅行記」のようなフィクションもよく売れた。ともあれイエズス会、東インド会社に限らず、記録を重視する、「情報」が大きな価値を生むとする考えは、ヨーロッパ人に徹底しているように思う。また彼らの旺盛な知識欲にも驚嘆する。おかげで、歴史的な事実を複数の文献資料で多面的に比較研究することができ、より正確で信頼できる史実の検証が可能となる。紙に書いた書籍が後世に残ることで、書誌学的視点で振り返ってみることで歴史を追うこともできる。残念ながら、長い年月の間に消滅したり、散逸したりで全てを一次史料によることはできない。また残された公文書、直筆原稿や日記、手紙などは極めて貴重な歴史遺産であり、おいそれと手に入れたり、閲覧したりすることもできない。いきおい写本や改訂版、復刻版、英文版、日本語訳などの翻訳版を追いかけるしかない。


なぜヨーロッパ人はアジアを目指したのか?(ファーストコンタクトの時代背景とは)

ところでなぜ、ヨーロッパ人はインド/アジアを目指したのか。なぜ「大航海時代」は起きたのか、少しここで「おさらい」をしておこう。ユーラシア大陸の西の端に圧迫されていたキリスト教世界が、イスラム教徒との戦いに勝利することを願い、そして圧倒的なイスラム文明の圧迫から逃れようと、伝説の東方のキリスト教国の王「プレスタージョン」と同盟を結びたいという、宗教的な動機があったのはもちろんあるが、それだけではない。当時のヨーロッパとアジアの関係について「地球儀を俯瞰して」振り返って見る必要がある。ちなみに、当時のヨーロッパ世界では、アジアは「インド」だと認識されていた。「新たに発見された」マラッカやジャワ島、モルッカ諸島などの現在のインドネシア、フィリピン、琉球、そして日本を含めて「東インド」と呼んでいた。コロンブスが「発見」したとされる新大陸のカリブ海の島々は「西インド」だと認識されていた。

「大航海時代」と呼ばれる時代のムーブメントのキモは、「豊かなヨーロッパの産物を貧困なアジアに売りつける」ことではなく、まさに逆で「アジアの豊かな産物を仕入れてヨーロッパで売って儲ける」という交易をめざしたものであった。目指すはインドの綿織物であり、東インドのモルッカ諸島の香辛料であり、中国の絹や陶器である。彼らが東インド(アジア)に持ち込もうとした交易品はせいぜい毛織物くらいしかなく、しかも暖かい地域では売れなかった。この頃の世界は、イスラム世界、アジア世界こそ豊かな経済先進地域、技術先進地域であり、ペルシャ帝国やムガール帝国、明帝国などの超大国の巨大な市場に、「西の辺境の地から、ポルトガル人が富を求めて出かけてきた」というのが実情である。事実、日本にたどり着いたポルトガル船も、遅れてきたオランダ船も、本国から持ち込んだ交易品(毛織物)は売れないことを悟った。私掠船として海賊行為をするために積んであった大量の鉄砲や大砲、弾薬だけが権力者の目に留まり、欲しがられたが。したがってアジアの財物(茶、陶器、絹織物、刀剣)を、奴隷貿易により新大陸で得た銀と交換する、ないしはのちに日本の銀を用いた「中継貿易」で儲けることになった、という事実が彼らの交易の実情をよく表している。ヨーロッパ側から見ると銀が一方的にアジアに流出する圧倒的「貿易赤字」であった。彼らは、陸伝いではイスラム勢力という大きな壁に阻まれるので、海路、アフリカ希望峰からアラビア海、インド洋、ベンガル湾、マラッカ、南シナ海、琉球を経由して中国沿岸に達するというルートを取らざるを得なかった。この海は開かれた市場(インド洋自由交易圏)で、魅力的な交易品を持っているものなら誰でも参入できた。海から来たポルトガル人は、沿岸部のゴアやカリカットに拠点を築き、マラッカに進出し、マカオに居留地を求め、博多や堺、平戸や長崎に商館を置いた。アジアの大帝国にとってインド洋自由交易市場やマラッカに入ってきたヨーロッパの「ポルトガルなる国」の船など、巨大なパイに群がる蟻のような存在であったであろう。帝国の核心的利益は、海ではなく農業生産を主とする大陸内部にあったから、領土争いには血道を挙げるが、海岸部に群がってくる蟻たちには鷹揚であった。帝国沿岸部には商業都市が生まれ、ペルシャ商人やインド商人、中国商人、シャム、琉球の船が集まってきた。ポルトガルという異国の船もやってきた。しかしポルトガル商人が帝国版図の奥地まで進出することはなかったし、イエズス会宣教師が布教活動に出向くこともなかった。こうして彼らが300年前にベネチアの商人マルコ・ポーロが「東方見聞録」で描いた「黄金の国ジパング」こそ幻想であったが、そのインド/アジアの資源や産物とそこから得られる富をめざすという、経済的な動機が「大航海時代」を生み出したと言って過言ではないだろう。


この時代アジアは先進文明地域であった(アジアとヨーロッパの逆転の時代の序章)

こうしたヨーロッパとインド/アジアの経済格差が、この大航海時代/大発見時代を生み出したわけだが、文明度という点でもイスラム/インド/アジアの方が遥かに先進地域であった。これが19世紀のセカンドコンタクトの時代との大きな違いである。これは日本との関係においても同様である。当時の日本は戦国時代で、ほとんどの人々は決して裕福とは言えないし、産物も資源も豊富とも言えない(そんななか石見銀山が見つかったが!)。マルコ・ポーロの「ジパング」幻想は既に過去のものとなっていたが、ヨーロッパとの相対比較で言うと、文明的に劣っていたわけではない。むしろ宣教師や商人がこぞって驚嘆するように、高い東アジア的な文明的達成点にいた。すなわちセカンド・コンタクトの時と異なり、この時はアジア/日本がヨーロッパ文明に劣後する関係にはなかった。もちろん天文学(航海術、地図制作)や外洋船建造技術、鉄砲、本草学(医学、薬学)のようなヨーロッパ最新の科学的成果も入ってきて(これも元はと言えばイスラム世界からヨーロッパに伝わったものだが)為政者たちを喜ばせた。しかし都市の繁栄や人々の生活レベルは、彼らの本国を上回る規模と質であった。ただキリスト教世界から見ると異教徒世界であり(そういう意味で「野蛮」「未開」とみなしたが)、ヨーロッパとは異質の文明ではあるが、対等以上の関係であった。軍事面で見ると、日本は南北朝騒乱以来続く200年の戦乱状態は、国内に練度の高い軍隊(将軍を頂点とする)と、統制の取れた武装集団(武士団)を形成し、優秀な兵士(サムライ)を多く抱えた強大な軍事国家となっていた。さらにポルトガル人がもたらした鉄砲は、この戦国の世の軍事的バランスを一変させて、鉄砲保有数で勝る武装集団が天下の覇権を握ることとなった。鉄砲もポルトガル人の有力な交易品になるはずであったが、日本人は自分の手で大量生産を始め、この時代、鉄砲保有数において日本は、たちまち世界最大の国となった。こうした点をみても日本が軍事的にポルトガルやエスパニアに劣り、易々と占領されて植民地化される懸念など、為政者にはなかったであろう。むしろキリシタン思想による儒教的な社会秩序、価値観の置き替わりを懸念した。より具体的には西国の武力集団(キリシタン大名)が、徳川家を中心とする東国武士勢力のヘゲモニーと奪うことを恐れたことが禁教令のキモであった。天下を治めた家康は、日本では鎖国を始めた指導者と評価されがちであるが、彼らの記録を読むと、むしろヨーロッパや東インドとの交易を促進しようとしたことがわかる。エスパニアとの交易を求めてメキシコ経由で使節を送り、オランダ、イギリスとの朱印船交易に積極的であった。一方で、キリシタンのアグレッシブな態度に怒り、それに西国大名が結びついていることに恐れを抱いた。そしてキリスト教禁教令を発した。キリシタンとも密接であったポルトガルが交易を取り仕切るのではなく、代わってオランダを主役に仕立て、長崎出島に押し込め、幕府による管理統制貿易という対外政策を取ることとなった。これは換言すれば日本(徳川幕府)が貿易のヘゲモニーを握るということに他ならない。必ずしも全ての国交を閉じる「鎖国」ではなく、幕府が認めれば貿易関係を開く、というものであったが、次第に外国を締め出す「鎖国」になっていった。ちなみに「鎖国が祖法である」などというのは江戸時代末期の幕府官僚が外国船を追い払う方便(いいわけ)に持ち出した「お題目」である。

16〜17世紀のファーストコンタクトの時代はやがて、18〜19世紀のセカンドコンタクトの時代へと転換してゆく。これはアジアとヨーロッパの優位性の逆転の歴史である。


(参考ブログ)



「バテレンの世紀」の登場人物とその記録

歴史の「おさらい」が長くなったが、ここからは「バテレンの世紀」の主要な登場人物と、その日本との出会いの記録を紹介したい。彼らは、東回りでインドのゴア経由で、東洋へやってきたポルトガル人と、西回りで新大陸、フィリピン経由でやってきたエスパニア人である。日本では「南蛮人」と呼ばれた人たちのアジア/日本見聞録である。300年前のベネチアの商人マルコ・ポーロの「東方見聞録」で描かれた「黄金の国ジパング」に、ついに遭遇した彼ら。その現実の姿は彼らにどのように映ったのだろうか。イエズス会の布教の記録が多く残されていることは先述の通りであるが、宣教師(バテレン)の他にもポルトガル商人(ピレス)、冒険者(ピント)やエスパニア商人(ヒロンなど)の記録も残っている。こうした記録を読み合わせることにより、日本史が、そして世界史がより多面的に理解できるようなれば幸いなるかなである。



(1)トメ・ピレス: Tome Pires(1466?〜1524?)

ポルトガルから初めて中国(明朝)へ送られた使節の大使。しかし交易開始交渉は失敗。マラッカで書いた
「東方諸国記」でポルトガル人として初めて日本に言及した。ただ、日本に来たことはない。

トメ・ピレス

ポルトガル領マカオ発行の切手
1955年


「東方諸国記」岩波大航海時代叢書

パリ版写本


ピレスはリスボン生まれのポルトガル人。生まれも生い立ちもよくわかっていない。薬種商人としてゴア、マラッカへ渡ったが、ポルトガル商館員として各地へ赴いたことが記録されている。1520年には、明国との交易を求めてポルトガル使節の大使として北京へ派遣されるが、交渉を拒否され皇帝に謁見できず、広東で投獄された。このようにポルトガルは中国という巨大市場への参入を目指したが失敗した。当時の明朝は朝貢以外の海外貿易を一切認めない海禁策をとっていた。日本も倭寇対策として明国への入港が禁じられていた。しかし、ポルトガルはこれで諦めたわけではなく、まさに巨大なパイに群がる蟻のように沿岸部で密貿易に従事、この過程で倭寇とも遭遇。また唯一寧波では日本の勘合貿易船が入港していたが、公的な貿易ではなく私貿易(海賊行為)に関わった。公的な交易関係を結ぶのはのちのことだ。しかし、ポルトガル人の日本に対する関心は低く、この時点では彼の地に向かおうという意図は感じられない。一方で中国のジャンク船は、私貿易船として九州を訪れていた。この頃ポルトガル人は中国人や倭寇と一体となって活動していたので、この中国のジャンク船に同乗して日本に接近する機会は既にあった。これがやがてポルトガル人の種子島漂着(鉄砲伝来)につながっていく。

「東方諸国記」: Suma Oriental que trata do Maar Roxo ate os Chins(「紅海からシナ人の国までを取り扱う東洋の記述」略して「東方諸国記」)は、ピレスが1515年にマラッカで著した地理書。ポルトガル人による初めての総合的なインド/アジア総論である。1595年にオランダ人のリンスホーテンが「東方案内記」を表すまでは、ヨーロッパ人にとっては唯一の全アジア案内書であった。とくにインド洋交易圏におけるイスラム/アラビア商人の活動エリア(アラビア海)、インド商人の活動エリア(ベンガル湾)、および中国商人の活動エリアについて詳説している。後発のポルトガルが、先発の交易集団活動実態の研究をしているわけだ。この中で日本についての記事が見える。これがポルトガル人が日本(Jampon/Jampom)について言及した最初の記録であるが、海洋交易を盛んに行っていた「レキオ(琉球)」に関する章の中でわずか数行コメントされているに過ぎない。「ジャンポン島」は「レキオ」よりは大きな島である。商品にも自然の産物にも恵まれない。ジャンク船を持たず海洋民族でない。中国皇帝の臣下である(足利義満の朝貢のことを言っている?)と。レキオ(琉球)はこの時代の東アジアの主要な交易プレーヤーとして認識されていたことが知れるが、一方でジャンポン島に関してはほとんど情報がない。レキオ(琉球)とジャンポン(日本)の区別が十分ついていないことも窺わせる。ともあれ、そっけない記述は日本には冷淡でほとんど関心が持たれていなかったことを示唆している。もちろんピレス自身は日本に行ったことも、日本人と接触したこともなかった。このように、「大航海時代」のきっかけを作ったとも言える、300年前のマルコ・ポーロの「アジアの黄金郷ジパング」の幻想は既に失われており、ヨーロッパ人は、より現実的にインド、東インド、そして中国という巨大市場を目指していた。マゼランも世界就航の際、日本近海を航行したにもかかわらず寄ろうともしなかった、その「ジパング」を「再発見」するにはもう少し時間が必要だった。



(2)フェルナン・メンデス・ピント: Fernao Mendes Pinto(1509?〜1583)

「遍歴記」: Peregrinacamを著し、その中で自分が種子島来航の初めてのポルトガル人であると自称した冒険家。本国では「法螺吹きピント」の冒険物語と言われるが、現地に出向いての実体験は、伝聞による記述とは異なり無視し難い説得力を持っている。


メンデス・ピント


「遍歴記」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙





ポルトガル人の冒険家。インド、アジア各地を遍歴した。その波乱の体験と見聞した事物を帰国後にまとめたのが「遍歴記」。彼の死後になって出版された。1663年刊

彼はこのなかで、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着したポルトガル人の一人である」、1549年の「ザビエルの日本布教を助け、アンジロウを引き合わせたのは自分」と主張している。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。その偶然の遭遇による「再発見」という出来事は、ヨーロッパ人にあの時の夢を思い起こさせたに違いない。ここが「あのジパングか!」と。ピントのそのドラマチックな出来事に関わったのだという主張(「現場からピントが報告いたします」的な)はインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であろうと考えられている。ザビエルの死に際してイエズス会に入会し、多くの財産を寄進したとある。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したとも語っている。しかし、話に誇張や事実と異なるエピソードが多く含まれており、むしろ「遍歴記」は冒険物語(フィクション)と捉えられた。事実、出版後はヨーロッパで人気冒険ばなしとして多くの読者にもてはやされた。本国では「法螺吹きピント」と言われた。こうしたことから史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いと見做されているが、全体としては彼のアジアでの体験、見聞に基づく記述が多く含まれ、日欧交流の研究史料として無視し得ない。当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観が描かれている点でも貴重な著作だと考えられている。

ポルトガル人の種子島上陸と鉄砲の日本への伝来に関する記録は、南浦文之(なんぼぶんし)の「鉄砲記」1606年、アントニオ・ガルバンの「世界新旧発見史」、エスカランテ・アルバラード報告書などがあるが、いずれも伝聞による記録である。しかしピントの記述は、自分の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、ピント自身が「その時」種子島にいなかったとしても全く根拠のない作り話とは言い切れない。東シナ海ではポルトガル人は中国人と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってポルトガル人が中国船ジャンクで日本沿岸を航行し、漂着し、やがては渡航することになることは不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達も中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。最初は公的な貿易関係ではなく、中国人と、日本人などとの私的な交易、海賊行為から始まったが、やがてはマカオを拠点にして平戸、長崎との間で中継貿易を始めることに繋がっていった。ピントもこのジャンク船で日本にも来ており、琉球列島や奄美諸島に行っていたことは十分考えられる。そうした公式記録に出てこない活動の実像を知るうえでも貴重な資料。



(3)フランシスコ・ザビエル: Francis Xavier(1506〜1552)

改めて説明するまでもない、キリスト教を初めて日本へ伝道したイエズス会宣教師。彼の事績は各国語に翻訳された「ザビエル伝 インド/日本への布教」: The Life of St. Francis Xavier Apostle of the India and Japanなどに記録されている。マラッカで出会ったアンジロウに日本人への布教の可能性を見、渡航を決意したと言われている。


フランシスコ・ザビエル

「ザビエル伝 インド/日本への布教」
1660年ジョン・ドライデンによる英訳




エスパニアのナヴァラ王国の上流階級の出身。イエズス会創設者のイグナチオ・ロヨラと同じバスク地方の出身で、両者は1529年にパリ大学で出会った。イエズス会はこれまでの修道会と異なり、黙想、研学を尊び伝道活動を実践するという戦闘的な修道会であった。宗教改革に対抗してカトリックの生命を生き返らせること、海外領土の異民族をキリスト教徒へ改宗させることが大きな目標であった。特に世界の全面的なキリスト教化の実動部隊たる性格が強かった。そのため軍隊的な規律と上命下達、上司への服従、定期的報告義務が課せられた修道会であった。そのイエズス会宣教師として、キリスト教布教のため初めて日本に上陸したのがフランシスコ・ザビエルである。

ザビエルは、マラッカで出会った日本人(薩摩藩士)アンジロウから日本の話を聞き布教を思い立ったとされる。彼は薩摩で罪を犯し逃亡してきたという。しかし、アンジロウという人物の旺盛な知識欲と怜理さに魅せられた。未開の地の異教徒への布教でも理性があれば迷信や偶像の闇を祓うことができると考えた。ザビエルは理性の力を信じる近代合理主義的精神を有した人物であった。ちなみに、このアンジロウは、洗礼を受け、キリスト教徒になった初めての日本人だとされている。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。アンジロウ、トルレス、フェルナンデスとともに布教を開始した。鹿児島、平戸、豊後、博多、山口などを回り、大内氏や大友氏など、九州、山口の大名から庇護を受けたが、ミヤコでの布教を目指した。しかし、都は戦乱で荒廃し、ミカドは統治能力を失っており、その許可を得ることは叶わなかった。彼らの滞在期間だけでは、信者獲得という点では大きな成果を上げることはできなかった。1551年離日、いったんゴアに戻り、ロヨラの説得など、日本布教の戦略練り直しをはかった。滞在期間は2年3ヶ月であった。翌年、中国での布教を目指したが上川島で死去。この後、日本ではトルレスが布教長となりザビエルの遺志を継ぎ、カブラル(布教長)、コエリョ(準管区長)、ゴメス、パシオ、カルバーリョ(管区長)等々と布教活動が引き継がれてゆく。この間に巡察師ヴァリニャーノがゴアから三回に渡って来日している。ヴァリニャーノは天正遣欧使節を企画しローマへ送った。結局ザビエルにはじまったイエズス会の日本でのキリスト教布教活動では30万人の信者を獲得したと言われている。南蛮人との出会いのインパクトは、ポルトガル人による交易以上に、このキリスト教布教によるものが大きい。それが、のちに禁教令、さらにはいわゆる「鎖国」政策にまで発展することになる。まさに「バテレンの世紀」の始まりであった。

ジョン・ドライデン英訳の『ザビエル伝 インド/日本への布教」1688年、については2021年11月17日「古書を巡る旅(17)」ザビエル伝参照。



(4)ルイス・フロイス: Luis Frois(1532〜1597)

戦国時代の歴史に必ずと言って良いほど登場するイエズス会の宣教師。「日本史」: Historia de Japon、「イエズス会日本通信」、「日欧文化比較」など多くの著作、記録を残し、戦国日本の第一級歴史資料となっていることは周知の通り。


長崎横瀬浦公園のフロイス像

「日本史 キリシタン伝来のころ」 全5巻
平凡社東洋文庫

リスボン王立アジェダ図書館版写本


リスボン生まれのポルトガル人、イエズス会宣教師として日本にやってきた。

1548年、16歳でイエズス会に入会し、ゴアへ。そこでザビエル、アンジロウと出会う。
1561年ゴアで司祭に叙階
1563年(永禄6年)日本へ、横瀬浦(大村領)に上陸(31歳)平戸へ。
1569年 オルガンチノとともに安土で信長に会う。
1580年(天正8年)巡察師ヴァリニャーノと信長謁見
1583年(天正11年)〜イエズス会の活動記録事業に専念「日本史」執筆に取り掛かる
1590年(天正18年)天正遣欧使節 1592年(文禄元年)ヴァリニャーノと秀吉謁見(聚楽第)
1597年(慶長2年)二十六聖人殉教の記録を残し長崎で没す。

イエズス会の日本における活動記録の執筆を命ぜられたことから、1583年からこれに専念し、まとめられたものが「日本史」: Historia de Japon である。これが、このような貴重な詳細記録が残されることになった所以である。もっとも、18世紀に入ってイエズス会の活動休止と迫害に伴い、多くの記録や文書が破棄されたり散逸したため原文はほとんど残っていない。しかし、のちにフロイスの原稿を始め、多くの重要な記録の写本が発見されこれらに基づいて編纂されたものが「日本史」と呼ばれるものである。第一巻日本総論のみ現存、第二巻一部(1549〜1578年)第三巻二部(1578〜1589)第三部(1590〜1593)となっている。日本で翻訳されているのはこの第二巻一部のドイツ語訳版である(「日本史 キリシタン伝来のころ」柳谷武夫訳 平凡社東洋文庫)。

宣教師(ぱあどれ、バテレン)の視点で、布教活動、のちには禁教、殉教の模様を克明に記録しているのはもちろんだが、みやこや九州で起きた、政変や事件についての記録も興味深い。フロイスはヴァリニャーノの通訳として、信長や秀吉といった天下人とも会っており、戦国時代の歴史的な事件に遭遇した、その目撃者であり当事者ですらあった。日本に残る「信長公記」や「太閤記」、「徳川実紀」(いずれも江戸時代になってから編纂されたもの)などとは異なる視点からの記述であり、為政者ならびにその当事者の目線とは異なる目線での記述であるとともに、細かい現場のリアリティーを伝えており、一種「現場からのレポート」としての臨場感がある。。例えば、最近になって話題になっている、信長に仕えた黒人侍「やすけ」の話など、「信長公記」では触れられているが、フロイスの「イエズス会日本通信」に、信長と出会った時のことが詳細に語られているし、「日本史」では本能寺事件後の「やすけ」の消息を匂わせる記事も出てくる。時の権力者に忖度しない観察眼が新鮮だ。日本に通算して35年滞在し、キリスト教布教と弾圧の双方の時代を生きた。キリシタン布教史、日欧交流史という観点だけでなく、戦国日本史にとっても貴重な史料であることは言うまでもない。

このほかにも「イエズス会日本通信」、「日欧文化比較」1585年がある。この「日欧文化比較」は九州の加津佐で書かれた、いわば最初の日欧比較文化論として貴重である。すなわち日本では全てのことがヨーロッパの逆さまでるという、異文化間コミュニケーションでありがちなtopsy-turvydom、すなわちさかさま、あべこべ、の事例を挙げている。これは、300年後の明治期にお雇い外国人として日本にやってきた西欧人、バジル・ホール・チェンバレンなどが描いた日欧文化比較論に通じるものである。チャンバレンは「日本事物誌」:Things Japaneseでtopsy-turvydomについて項を起こし記述している。


ルイス・フロイス「日欧文化比較」
岩波大航海時代叢書




(5)ジョアン・ロドリゲス: Joao Rodrigues(1562?〜1633)

「日本教会史」: Historia da Igreja do Japao、「日本語大文典」/「小文典」: Arte da Lingoa de Iapamを著したイエズス会宣教師。フロイスを引き継ぎ、イエズス会の通訳として活躍。フロイスの「日本史」を補完する体系的で詳細な日本総論を展開した。300年後のセカンド・コンタクト時代に登場したジャパノロジストの大先達といえる。



ジョアン・ロドリゲス肖像


「日本教会史 上・下」岩波大航海時代叢書

ポルトガルのアジェンダ図書館に残る写本の一部

彼の自筆署名



ポルトガル人。通算して30年以上日本に滞在。母国ポルトガルでよりも日本で教育を受け日本語堪能

1577年 少年時代にマカオ経由で日本に
1580年 イエズス会入会。アレサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師に見出されて、臼杵のノビシャド、豊後府内のコレジオに学ぶ。ルイス・フロイスを継いで通訳となる。
1595年 マカオで司祭に叙任
1596年 長崎に司教として赴任 布教活動に勤しむ中、サンフェリペ号事件(1596)、二十六聖人殉教事件(1597)に遭遇。
1598年 イエズス会日本管区会計係 イエズス会の経営再建に尽力した。
1601年 家康から貿易代理人(朱印状取得)に(イエズス会の赤字解消のために貿易に携わった)
1609年 岡本大八事件で国外追放 長崎奉行長谷川藤広、長崎代官村山等安 と対立?
1633年 マカオ市政、明朝への派遣などを経て、マカオで没す。

日本語能力を買われ、フロイスの後のヴァリニャーノの通訳として、秀吉や家康との交渉に携わった。また、この頃運営資金調達に困難をきたしていたイエズス会日本管区の経営にも関わり、絹貿易の許可を家康から得て、イエズス会の「経営再建」に活躍した。一方でまた日本語の文法家としても下記のような重要な著作を残し、いわば「バテレンの世紀」のジャパノロジストとして活躍した。

「日本教会史」は、ロドリゲスと原マルチノに日本の教会の歴史をまとめるようイエズス会本部より要請されて執筆に取り掛かったもの。岡本大八事件によるマカオの追放の後に、長崎への帰還を願いつつ失意のうちに執筆された。前半は日本の自然/風土、地理や哲学、社会習慣について詳細かつ多岐にわたって記述している。先達であるフロイスの成果である「日本史」を補完し、より完全で奥深い記述に努めた。当時の日本をリアルに描いており、いわば日本総論とも言える内容。後半は、日本におけるキリスト教布教活動と殉教の模様を詳細に記録している。フロイスの「日本史」は1593年で終わっているが、その後のサンフェリペ号事件や、それに伴って起きる長崎26世人殉教の模様が詳細に記述されており、ここから始まるキリシタン暗黒の時代の記録となっている。すなわち、天下人が家康となり、彼への接近と、オランダ船の来航(1600年のリーフデ号)に伴う家康の外交姿勢の変化。その後の長崎奉行、代官との確執、彼自身の国外追放という受難の時代が描かれている。前半のパートをとって、日本に関する最初の社会科学的研究書の一つであるとする研究者もいる。ロドリゲスはキリシタンの迫害と追放の中でも、異質なものに対する敬意と理解、公平無私な観察眼を失わず、西欧人の目で見、日本人の心で感じたと言われる。結局、彼の直筆原稿は刊行されることなく、写本のみがリスボン王立アジェダ図書館に残る。

一方で、日本語研究者としても優れた成果を残している。「日本語大文典」はポルトガル語による日本語の文法書。「日本教会史」執筆に先立つ1604〜1608年に長崎で刊行された。現在はオックスフォード大学ボドレイアン図書館に伝わる。「日本語小文典」は1620年マカオで刊行。ロンドン大学SOAS(アジア/アフリカ研究学院)とポルトガルアジェンダ公共図書館に伝わる。どちらもヨーロッパにおける初期の日本語の研究書で、19世紀セカンドコンタクト時代のバジル・チェンバレンの日本語研究書や日本事物誌の300年前の先駆けとも言える。キリシタン/バテレン受難の時代とはいえ、こうした人物が失意のうちにマカオに追放されたことが惜しまれる。



(6)ベルナディーノ・デ・アビラ・ヒロン: Bernardino Avila Giron(?〜1619?

「日本王国記」: Relacion del Reino de Nippon a que Ilman corruptamento Jappon(「転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告」略して「日本王国記」)を著したエスパニア人。長崎在住の貿易商。宣教師ではない世俗の人物の日本滞在記録として貴重。

(肖像不明)


「日本王国史」岩波大航海時代叢書


「日本王国記」エスコリアール版写本


エスパニア人。20年間、主に長崎に在住した旅行家、貿易商。しかし出生地や生い立ち、フィリピンに来るまでの経歴などは全く知られていない。

1590年ヌエバ・エスパーニヤ(メキシコ)からマニラへ(フィリピン総督に伴って)
1594年フィリピン総督が豊臣秀吉に宛ててフランシスコ会宣教師からなる使節団を派遣。この第三回目の使節団一行とともに平戸へ。その後、長崎に居住。薩摩、島原、口之津などを旅行。
1598年。マカオに渡航。長崎、マニラからアジア各国を転々とする。
1599年カンボジア、シャム旅行。そのご明、マカオに。
1600年インドへ。マカオ、シャムを遍歴したのち
1607年長崎に戻る。
1619年の記録では長崎にいて妻帯していたと言われるが、その後の消息は不明。

「日本王国記」1598年初稿はマカオで書かれたが原稿は未発見である。1615年第二版、1619年第三版が出された。写本を元に後年の1883年にスペインで公式出版された。

ポルトガル人ではなく、しかも宣教師でもない世俗の旅行家、貿易商人による日本の記録として珍しいもので、長崎を拠点に国内外を旅行し、
実体験に基づく記述は史料的な価値が高い。当時のエスパニアには新大陸ポトシの銀があり、フィリピン経由で直接、中国との交易を目論んでいたので、日本との交易には関心がなかった。わざわざ石見の銀を狙ってポルトガルの中継貿易に割って入るインセンティブはなかった。しかし、秀吉からの恫喝的な「朝貢」要請で(渋々)フィリピンから使節がやってきた。その三回目の一行の中にヒロンがいた。どのような経緯で彼が日本に住むことになったのか本文中にも語られていない。この「日本王国記」は日本に関する自然や文化、風習、言語、統治体制など総論的な記述に続き、1549年’天文8年)三好長慶から1615年(元和元年)大坂の陣まで記述。信長台頭、本能寺の変(1582年)、山崎の合戦、豊臣秀吉天下統一、バテレン追放(1587年)、朝鮮出兵、サンフェリペ号(エスパニア船)事件、二十六聖人殉教、大坂の陣、盗賊石川五右衛門処刑(彼の実在を証明する記述とみなされている)など、日本での重要な事件を記述している。内容の半分以上は布教と殉教の歴史を語っており、1597年の二十六聖人殉教、1614年高山右近、内藤如安の国外追放については詳細に記録。家康をキリスト教を弾圧した暴虐な君主としている。1600年にやってきたウィリアム・アダムスが、キリシタンに不利になる出鱈目な告げ口をしたので家康がキリシタン禁教に向かったと書いていおり、リーフデ号漂着事件に言及。新興国オランダ、イギリスの日本登場を記述している。。

また日本書紀などの古文書から天皇家の万世一系論の受容。神武天皇以来2270年経っている(西暦の紀元前660年建国)として、中国王朝と共に悠久の歴史を有するミカドの一族が統治権威として君臨しているとしている。。




(参考)ファン・ゴンザレス・メンドウサ: Juan Gonzalez de Mendoza(1545〜1618)

エスパニア人。軍人であったがアウグスチヌ会修道士、司祭となり。コロンビア、メキシコに赴任。1583年グレゴリオ13世の命で中国誌の編纂。1585年「シナ大王国誌」をローマで初版。ただ。メンドーサ自身は中国へ行ったことはなく、ジョアン・デ・パロスの「アジア史」などをもとに編纂した。当時としてはヨーロッパで初の(マルコポーロ以来の)中国総論として多くの知識人に読まれた。第三巻十四章が日本に関する一章である。ハポン島はシナ帝国の臣下であり続けた(古代倭国時代の朝貢冊封の話か?それとも足利義満の遣明船朝貢の話か?))が、最近は歯向かい続けていて、シナに災いをなしている(倭寇のことか)。
有力な王がいないが、信長という有力な人物が出てきて、王としての覇権を握りつつある。戦争ばかりやっていて貧しい。イエズス会の努力でキリスト教徒が増えていて、キリスト教伝道が成功している国だ等々の記事がある。もちろんメンドウサ自身は日本へ行ったことはなく、どれも伝聞による記述であるが、当時の中国側(明王朝)の日本観、ポルトガル人やイエズス会報告による日本観が伺えて興味深い。



(参考)17世紀後半までのいくつかの重要な出来事の年表を下記に示しておく。

1271〜95年 マルコ・ポーロの東方旅行(東方見聞録)

1488年 バーソロミュー・ディアス アフリカ大陸最南端、希望峰到達

1492年 クリストファー・コロンブス 北米大陸発見(サンサルバドル島到達)(スペイン人の西廻り航路)

1497年 バスコ・ダ・ガマ インド洋進出、カリカット到達(ポルトガル人の東廻り航路)

1519〜22年 マゼラン一行世界周航

1543年 ポルトガル人、中国ジャンク船で種子島漂着(鉄砲伝来)

1549〜51年 ザビエル/イエズス会日本に。キリスト教布教開始

1557年 ポルトガル人中国マカオ居住開始 日本平戸との貿易拠点に

1564年 エスパニアのフィリピン征服

1580年 エスパニアのポルトガル併合

1582年 天正遣欧使節ローマへ 本能寺の変

1590年 天正遣欧使節帰国 秀吉天下統一

1596年 サンフェリペ号事件

1597年 長崎二十六聖人殉教

1600年 オランダ船リーフデ号豊後漂着 ウィリアム・アダムス 関ヶ原の戦い