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2021年12月28日火曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第二章「カピタンの世紀」①  〜阿蘭陀人の日本見聞録〜


ファン・ノールト艦隊が東インド海域で出会った日本のサムライ


ウィリアム・アダムス(三浦按針)像



ファースト・コンタクト第二章「カピタンの世紀」とは

時代は17世紀に入る。1600年のオランダ船リーフデ号の豊後漂着が、世紀の転換を象徴するように、ファースト・コンタクト第二章では、ポルトガル人、スペイン人(南蛮人)に加えてオランダ人やイギリス人(紅毛人)が日本にやってくるようになる。そして、キリシタン禁教令とバテレン追放令など一連の徳川幕府の政策により、南蛮人の宣教師(バテレン)が追放されて、紅毛人の「東インド会社」(商館長カピタン)が主役の時代になっていった。「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」への「遷移」が始まったわけである。今回の主役は、ポルトガルやスペイン人ででも、キリスト教の宣教師でもなく、プロテスタント国オランダ人、イギリス人。冒険的航海者や、商業的な交易を目指してやって来た株式会社「東インド会社」とその出先である商館である。そういう意味で日欧交流関係史の主役が「バテレン」:宣教師から「カピタン」:艦長/商館長へと交代してゆく。ただ、その「遷移」は、「フェーズ転換」でも「パラダイムシフト」でもなく、実はオーバーラップしながらの漸変的フェードイン、フェードアウトであった。オランダ人、イギリス人と日本の接点は、やはり先行したポルトガル人、スペイン人と日本の邂逅、その交流の中に求められる。本国でのカトリックとプロテスタントの争い、オールドパワーからニューパワーへのシフト、そのアジアにおける出現による「遷移」であったのだが、それは新世紀到来と共に「フェーズ転換」したわけではない。オランダやイギリスの東洋進出のレールはポルトガルとスペインという先行者によって引かれていたのである。特に、長くスペイン王家の植民地の地位に甘んじていたオランダは、独立を果たし、勇躍世界へ歩を進めたが、それはスペイン帝国のレガシーの上に果たされた。


「カピタンの世紀」の主役とその著作、記録の出版

前回の「バテレンの世紀」とは異なり、「カピタンの世紀」の登場人物は、ポルトガルやスペインの宣教師や聖職者(バテレン)が影を潜め、このようにオランダやイギリスの冒険的航海者(カピタン)や東インド会社の商館長(カピタン)が主役として登場してくるのだが、実はそれだけでなく、それらの活動記録を集めて編纂し出版する出版者や、こうした記録に基づいて物語に仕立てる職業的な作家なども登場する。これは17世紀に入るとヨーロッパで、多くの旅行記や冒険談、異国の地理風土を知りたいという読者の熱望が湧き起こり、多くの書籍の刊行を促したことによる。こうした一種の旅行記出版ブームがあったこともこの時代の特色である。それだけに、イエズス会や東インド会社の書庫に収められた記録や日記や手紙などの原資料に加えて、人に読ませることを目的とした出版物も多く、歴史研究の観点からは一次史料、二次史料ともに豊富であると言える。それをどのように批判的に解読するかが文献史学的には課題となるのだが、とりあえず「時空の旅人」である我々にとっては、面白い本を選んで読んで見たい衝動に駆られる。なるべく原典に遡ってその時代の空気を読むそのワクワク感は、知識と欲望の空間的広がりの中で、「未知との遭遇」を求めた当時のヨーロッパの読者の心境と相通じるものがある。現代の我々には、そこに現在/過去という時間距離が加わる。まさに「時空トラベル」である。

ところで、この時代の登場人物といえば1600年に豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海士で、のちに徳川家康の外交顧問として重用された「青い目のサムライ」、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を忘れるわけにはいかないだろう。ちょうど世紀の変わり目という格好のタイミングに登場した。ところが、今回取り上げたオランダ人の記録や書籍を検分してみると、リーフデ号については度々言及されるが、ウィリアム・アダムスの名があまり登場しないことに気づく。我々日本人とって彼は歴史上の重要人物であり、日欧交流史の主役級の人物だと見做しているのだが、オランダ人の目から見るとどうも脇役(ないしはただの生き残り船員の一人)としか見られていない印象だ。イギリスにおいてさえ、彼の生まれ帰郷ケント州ギリンガムには小さな記念碑こそあれ、ほとんど人が彼の事績を知らない。せいぜいエキゾチックでロマンチックな小説や映画の主人公のモデルとしての認知度しかない。これはどうしたことであろうか。家康の外交政策に大きな影響を与えたことは特筆すべきことであり、彼の日欧関係の歴史に果たした役割については誰も疑いようのないものだが、日本側から見るだけではなく、イギリスやオランダ側からの視点で評価してみる必要もありそうだ。これはまた別途考察してみたい。

今回は、オランダ人のリンスホーテン、ファン・ノールト、コメリン、カロン、そしてモンターヌスを取り上げた。どれも日本人には馴染みの薄い名前ばかりだが、彼らは17世紀「カピタンの世紀」に日本に強い関心を寄せて、ロッテルダム、アムステルダムから勇躍出帆し、冒険航海を生き抜き、日本にたどり着き、そこで生き、あるいは日本の資料をかき集めて研究し編纂し、ヨーロッパに発信した人物ばかりだ。その日本との邂逅の記録だ。彼らの著作や記録を読めば、「彷徨えるオランダ人」:Flying Dutchmanの、怨念にも似た好奇心と欲望、そして未知の世界との邂逅によって湧き起こる驚きと感動を強烈に感じることだろう。

日欧交流史という領域の研究では国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授の著作が大いに役に立った。特に参考にさせていただいたのは「十七世紀のオランダ人が見た日本」臨川書店、「ウィリアム.アダムス」筑摩新書、この2冊である。また日文研のHPに掲載の日欧交流史書籍/史料データベースや教授の講演集で勉強させていただいた。また玉川大学の森良和教授の著作「リーフデ号の人びとー忘れ去られた船員たちー」は、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤンヨーステン(八重洲)しか教科書で習わなかった我々に、リーフデ号に関わるそのほかの人物の存在と活躍、その時代背景を知る機会を与えていただいた。


 (1)ヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテン:Jean Huygen von Linschoten(1563〜1611年)

ヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテン像

「東方旅行記」:Itinerario1596年、「ポルトガル人東方旅行記」1595年、「アフリカ/アメリカ地誌」1596年の三部作。 

1596年初版。1598年英訳版、1599年ラテン語版、フランス語版、オランダ語版再版1604〜1644年。


リンスホーテン「東方案内記」大航海時代叢書 岩波書店

初版の表紙

インド地図

この三部作は、ポルトガル人のトメ・ピレスの「東方諸国記」(1515年刊行)以来、初めてオランダ人によって表された体系的なインド/アジア案内記である。ヨーロッパ各国で人気の旅行記として読まれた。リーフデ号が参加したマヒュー艦隊、ファン・ノールト艦隊などのオランダの東洋進出に際して、ほとんど唯一のアジアに関する情報源となった書籍である。またオランダだけではなく、各国で翻訳され、イギリスにとってもアジアへ向かう航海の指針となった。日本との関係で特筆すべきは、オランダ人による日本に関する記述の初出であるということ。

リンスホーテンは、ハプスブルグ朝スペインの植民地支配下にあったオランダ・ハーレムで、1563年にカトリック教徒の家に生まれた。当時オランダはスペインと独立戦争中であったが、カトリック教徒のオランダ人には自由な商業活動が許され、彼はスペインのセビリアでスペイン語を学んだのちに、1580年にスペインに併合されたポルトガルのリスボンに移り、1583年にポルトガルのインド拠点ゴアに移住した。ここでの滞在期間中、多くのポルトガル人や彼らに雇われたオランダ人からアジア全体についての知識を得ることができた。1592年にオランダ・エンクホーゼンに戻り、そこで友人たちの勧めで、ポルトガルの東洋進出状況を詳細に報告した最初の記録、「東方案内記」(1596年)、「ポルトガル人東方旅行記」(1595年)、「アフリカ・アメリカ地誌」(1596年)の三部作を書き上げ、アムステルダムで出版された。当時、ポルトガルの東航路ルートの実態やインド/東インドにおける交易、植民活動の実態は一切情報が非公開で、いわば国家機密であった。とくにポルトガル商館記録は門外不出となっていた。そこで彼がゴアで見聞したポルトガルの活動状況や、人脈を通じて得られたイエズス会宣教師、ポルトガル商人の記録、地図をオランダ帰国後にまとめたものである。これはスペインに植民地支配されていたオランダや、スペインの脅威にさらされていた弱小国イギリスにとっては垂涎の書であった。やがて、この情報をもとにオランダはポルトガルが拓いた東インド/アジア市場に進出することとなる。このようにポルトガル海上帝国は、オランダ海上帝国の揺籃であった。

日本に関する記述は、第26章で「ヤパン島について」として独立の章を設けている。ゴアで出会ったオランダ人ディルク・ヘリツゾーン(長崎のポルトガル商館に雇われていた)の長崎滞在体験談、イエズス会の歴史家マッフェイの著した「インド史」を参照したと言われている。このマッフェイの「インド史」も、もとはイエズス会宣教師ヴァリニャーノやフロイスの日本からの報告書や手紙の記述を利用している。リンスホーテン自身も日本や中国には行っていないし、日本人と交流したこともない。しかし、ゴア滞在中にで日本から来た天正遣欧使節(1582〜90)と出会ったことを記述している。このエピソードは日本についての情報としてだけでなく、イエズス会が自分達の日本における権益と成果をアピールするために日本人を利用している、という批判として彼の考えを展開している。当時、日本における布教活動はイエズス会が独占しており、実績も上げていたのでローマ教皇もそれを認めていた。リンスホーテンのローマ教皇庁批判は、こうした他教団、修道会からの批判が高まっていたことの反映であろう。ゴアからの帰国後、リンスホーテンはプロテスタントへ改宗している。

リンスホーテンがゴアで出会った、ディルク・ヘリツゾーンも、先述のようにポルトガル船に雇われたオランダ人である。アジアに24年滞在し、そのうち1585〜1586年までは2度日本の長崎で過ごしたとされている。ルーカス・ヤンス・ワーへナールの「航海宝鑑」1592年刊(ヨーロッパ各地への航路解説書。付録に中国、日本などのアジア情報が記載されている)にその記録が掲載されている。ポルトガルの東洋進出にあたっては慢性的な人手不足があり、またオランダはヨーロッパにおける商工業、物流、海運で栄えた地域であったことから、度々オランダ人が雇われていた。このようにリーフデ号以前にも、ポルトガル人と共にオランダ人が日本に行っていたことになる。また彼は中国、日本の市場としての価値を帰国後も説いており、リンスホーテンも彼の話を聞いて大きな影響を受けた。ヘリツゾーンはその後、マヒュー艦隊のリーフデ号に乗船して3度目の日本行きに参加する、しかし、航海途中で司令官マヒューの病死があり、艦隊指揮系統の交代があり、ヘリツゾーンは同じ艦隊のボートスハップ号船長となる。しかし、航海途中でスペインの捕虜となり日本には辿り着けなかった。なかなか数奇な運命に翻弄されたものだが、なんと逞しい人生なのか!

「東方案内記」における日本についての記述をまとめると、「日本は寒い国、食事は米。家畜の肉を食べない。魚を食う。豪華な服装をしている。銀山がありポルトガル人がその銀で中国と絹や陶磁器などの交易をしている。刀剣や茶器、書画などの高品質な工芸品が驚くほど多数存在している。」「日本人は頭が良くて学習能力が高い。一般民衆も優雅で礼儀正しい。武器を上手に扱う。切腹という名誉の死刑がある。」「日本人はもともと中国人であった。中国王朝への反逆者一族が島流しにあったのが日本人となった。そのため日本人と中国人は憎み合うようになった。習慣も全く反対である。」これらはメンドーサの「シナ大王国誌」を典拠としている。また日本人の服装や習慣についてはマッフェイの「インド史」から引用しているが、これらはフロイスやヴァリニャーノの報告書や手紙の記述を転用している。このように多くの伝聞による不確かな「日本観」が披瀝されているが、「日本は他のインド、東インド諸国と異なり寒い国だ」という記述が、のちのマヒュー船隊が日本でヨーロッパ産の毛織物を売ろうと企画した根拠になっていると考えられている。彼のそうした観察、評価の適否はともかく、アジア進出の新しいターゲットとしての日本を取り上げている点は重要である。ヘリツゾーンの日本での見聞が影響を与えたのであろう。また、この章ではヤパン島(日本)周辺情報として、「コレア島」、「レキオ島」についても言及している。「コレア」(現在の朝鮮半島)については、その存在は認識されていたものの当時まったく情報がなく、ここが島であるのか、半島であるのかも分かっていなかった。またレキオ(琉球)については、中国との往来交易があり、中国人も住んでいる、として海洋国家として存在感を示していた様子が描かれている。ただし、台湾を「大レキオ島」、沖縄を「小レキオ島」と認識している。

オランダは当初、モルッカ諸島の香料貿易をポルトガルから奪い取り独占することが目的で、アジア進出を企図したが、やがてポルトガル人がやっている、中国、日本との貿易(絹、陶磁器、工芸品など高付加価値な財物)が大きな利益を上げることに気づき、東インドから北上して中国、日本を目指すようになる。そういう意味でもリンスホーテンの「東方案内記」は時代の画期をなす著作である。彼の名は、イギリスのハクルート協会に倣い設立された、オランダ・リンスホーテン協会にその名を残しており、今でもオランダの海上帝国開拓者の先駆者の一人として顕彰されている。


(2)オリフィール・ファン・ノールト:Olivier van Noort( ?  )


オリフィール・ファン・ノールト肖像

「世界一周紀行」:Beschryvinghe vande om den geheelen werelt cloot, Rotterdam

1601年初版。1602年第4版最終版。


初版本の表紙
ロッテルダム出港のシーン

ボルネオ沖で日本の商船に出会い拿捕しようとした
しかし金目のものがないので諦め、乗船して情報交換に努めた。
オランダ船と日本船の交流の第一歩である。

ノールト隊が出会った日本人。
サムライであろう。
鉄砲や刀で武装し、優雅な衣装に髷を結う気高い姿との印象を記している

ファン・ノールト艦隊は、オランダで初めて世界一周に成功した艦隊として歴史に記憶されている。またオランダ艦隊として初めて航海中に日本船と遭遇し、直接に日本人と接触、交流しその記録を残した。本書は帰国後にロッテルダムで出版された。

前出のように、スペインからの独立を果たしたオランダは、リンスホーテンの「東方旅行記」に刺激され、またこれをアジアへのガイドブックとして、多くのオランダ艦隊が次々とアジアへ向けて出港していった。この間の様子は、後述のコメリンの「東インド会社の起源と発展」に詳しいが、その船団の中に、1598年、ロッテルダムから出港した二つの艦隊があった。一つはビーテル・フル・ハーフェン会社によって派遣されたマヒューとコルデス率いる5隻の艦隊。これがあの日本に到達したリーフデ号が所属する艦隊である。もう一つは別会社によって組織されたファン・ノールト率いる4隻の艦隊。マヒュー艦隊の1ヶ月遅れでロッテルダムを出港した。いずれも西回りルートでマゼラン海峡を通過して東インド、中国、日本を目指した。当時、イギリスのドレイク艦隊、キャベンディッシュ艦隊が相次いで世界一周航海に成功しており、これに大いに刺激されたものだ。イギリス艦隊は、南米やカリブ海などのスペイン領、ポルトガル領や、海上のスペイン船、ポルトガル船を襲撃して財物を奪い、それを東インド・モルッカ諸島で香料と交換して利益を上げるという「ビジネスモデル」(私掠船モデル)で成功し莫大な利益を上げた。要するにスペイン、ポルトガルの船を襲って積荷を略奪し、それを売るという海賊商売である。もともと海運や流通に強いオランダもこの「ビジネスモデル」を真似て艦隊を出そうという話になったわけである。航海士には経験あるイギリス人(そう!リーフデ号のウィリアム・アダムスもイギリス人航海士)が多く雇われた。しかし、いざ実践してみると、マヒュー/コルデス艦隊は、ベルデ岬付近を航行中に司令官のマヒューが熱病で病死し、コルデス指揮下で指揮系統の変更を余儀なくされ、またマゼラン海峡付近で、猛烈な嵐に見舞われ途中で船団はバラバラになり、スペインやポルトガルに拿捕されたり、旗艦へローフ号は難破してかろうじてロッテルダムに引き返したり、ホープ号のように太平洋で行方不明になるなど、当初の目的を果たすどころか悲惨な結果をもたらす航海であった。しかし、その一隻リーフデ号だけがかろうじて日本の豊後に到着(漂着)した。オランダ人が初めて日本に到達した歴史的な出来事となり、やがて平戸、長崎を拠点とした商圏を開くきっかけとなった。一方のノールト艦隊は、多くの人員や船を失いながら、かろうじてロッテルダムに帰着し、オランダ艦隊として初めて世界一周を果たした。しかし、航海から上がる利益という点ではなんの成果を上げることもできなかった。このように両艦隊共に当初の利益目的(ビジネスモデル)は達成できなかったものの、その冒険航海は、オランダの歴史の一ページを書き加える成果を残すことになった。こうした経験から、オランダでは各社が都市ごとにそれぞれに艦隊を派遣して競争しても無駄が多く、事業として成果が期待できないことに気づき、1602年、紆余曲折を経た上で、各都市ごとにあった関連各社を統合した「連合東インド会社」の設立へと繋がってゆく。これがは初めての株式会社だと言われている。ちなみに。オランダはスペインからの独立後は、絶対君主を持たず、都市ブルジョアジーたる商工業者が、自治権を持った組合を作り、自衛組織をもち、交易活動を行なった。こうした中から共同出資会社たる株式会社が生まれた。ちなみに、オランダを代表する画家、レンブラントの絵画には、王侯貴族の肖像画は登場せず、こうした都市の商工業者組合の集団ポートレート(「夜警」に代表される)が主流となる。これが当時のオランダの政治体制、社会構造を象徴している。ライデン博物館(旧東インド会社の建物が現存!)には東インド会社のメンバーの集合写真(ポートレート)が飾られている。これ以降、オランダのアジア進出は、組織的になり本格化してゆく。

また、このノールト艦隊の「世界一周紀行」は、オランダ人が初めて日本人と直接遭遇し、それを記録していることでも重要である。艦隊はマゼラン海峡経由で太平洋に出て、1600年にボルネオ沖で日本のジャンク船(ポルトガル人が船長で、航海士は中国人、乗組員は日本人)と遭遇し、これを拿捕(要するに海賊行為)しようとしたが、めぼしい財物がないので、相手船に乗り込みお互いに情報交換して別れた。さらに翌年1601年に再び日本船と遭遇し、そこでマヒュー艦隊のリーフデ号が去年(1600年)日本の豊後に漂着し、数人の乗組員が日本で生存していることを知る。1603年にはノールト艦隊はロッテルダムに帰り着き、本国にリーフデ号の日本到達を伝えるという歴史的役割を果たした。こののち1609年になってオランダは日本に将軍宛の親書を携えた艦隊を派遣し正式に交易を開始、平戸に商館を開く。リーフデ号漂着から9年、ノールト艦隊世界一周から6年後のことであった。それにしてもこの頃は、日本の船や日本人がアジアの海で大勢活躍していたことを物語るエピソードではないか。スペイン船がフィリピン近海でイギリスのキャベンディッシュ艦隊に拿捕された時、そのスペイン船の乗組員であった日本人がそのままイギリスまで行き、プリマスに上陸した記録もある(次回のブログで紹介する)。イギリスに行った初めての日本人である。このほか日本のサムライがマラッカやボルネオ海域でオランダの傭兵として戦闘に参加して活躍した記録もある。そういう日本人の海外での動向の記録がオランダや、イギリスの文書には残っているが、日本側の記録が残っていないことにも驚きを感じる。いずれにしても日本人が島国に閉じこもっているイメージは「鎖国時代」以降に形成されたものである。日本人は閉鎖的な「島国根性の民」ではなく、海外に羽ばたく「海洋民族」であった。


(3)イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)


「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻

1644初版〜1646年三版


表紙
初版本を正確に復元したファクシミリ版

オランダ連合東インド会社社章



アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている

編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。

第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。

第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。先述のノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。

第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立。初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記1611年、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている(日本人に馴染みのウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンの名が見当たらないのは何故なのか?)。

第4巻には日本向けの荷物の記録や、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの後水尾天皇行幸見聞記などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。


(4)フランソワーズ・カロン:Francois Caron(1600〜1673)


「日本大王国史」:Recht Beschryvinge van het machtigh koninghrijck van Ippan.:1661年ハーグで刊行。

A True Description of the Mighty Kingdom of Japan 1671年英訳版。続いてドイツ語版、スウェーデン語版、フランス語版が出された。


ハーグ版の表紙
「ハラキリ」シーンが表紙となっている

バタビア商務総監フィリップ・ルーカスゾーン肖像
平戸商館長カロンから彼への社内報告書がもとになっている。

英訳板表紙

イギリスの東西交流研究者 C.ボクサーが編纂した復刻版1935年Argonaut Press刊

収納されている日本地図

将軍謁見の図


これは先述の1645年初版コメリンの「東インド会社...」に掲載されていたハーゲナールの報告書の付属資料として掲載されたカロンの日本報告書の刊行版である。オリジナルは、平戸商館長カロンからバタビアの商務総監フィリップ・ルーカスゾーン宛の報告書という社内文書であったもの。「日本大王国誌」として1648年アムステルダムで出版。1649、1652年に再版されている。またカロンがオランダに戻った後に改めてハーグで(1661,1662年まで三版)再版された。これはカロンがアムステルダム版にあるハーゲナールの注釈や訂正を嫌い、それを批判する意味で注釈/訂正を削除したものを改めて出版したものと研究者は指摘する。1727年にケンペルの「日本誌」が出るまでの70年の間、日本に関する基本書となった。ケンペルもカロンを盛んに引用している。

カロンはユニークな経歴の持ち主。彼はフランスのユグノー教徒であったがオランダに亡命。オランダ東インド会社に30年以上勤務。最初は東インド会社の船に料理助手として乗船。1619年、オランダ平戸商館に配属された。以来、1641年まで20年以上日本に滞在、日本人の妻との間に6人の子供をもうけた。日本語が堪能で、通訳などを担当し商務員となった。商館長の江戸参府に数次に渡って同行するなど日本事情に精通したカロンは、1638年に平戸商館長に昇進。幕府との交渉で活躍した。離日後は1647年にバタビア商務総監にまで上り詰めた人物。帰国後はフランス東インド会社長官(1667〜1673年)となる。このように一介の料理人助手から実力でのしあがった叩き上げの人物で、20年以上の長きに渡って日本に滞在し、商館長として幕府との交渉、数次の江戸参府、日本人の妻や親族との親交を通じて、日本の社会や文化に精通し、日本を内側から観察した。その記述は詳細でリアリティーに満ちている。

カロンは、台湾交易で日本船とオランダ船が対立するというタイオワン事件で一時オランダ商館閉鎖の危機という、苦難の時代を乗り切った。また第三代将軍家光の時代、日蘭貿易摩擦問題が起き、オランダの貿易独占を警戒した家光は、平戸オランダ商館のカピタンの任期を一年とし、また平戸商館、倉庫の破却と、長崎への商館移転(ポルトガル人を追い出した後の出島に移転)を命じた。いわゆる、一連の「鎖国政策」の一環である。この時オランダ東インド会社は、一時、日本撤退も検討したが、カロンはこれに反対し、幕府の突然の政策変更対して冷静に対応し、命令に従うことで家光との摩擦を避けた。その結果幕末まで、オランダが長崎を拠点に独占的に日本との交易を担うことになり、一方で幕府にとっては唯一の西欧社会との窓口をキープできた。


(5)アーノルダス・モンターヌス:Arnoldus Montanus(1625〜1683)

オランダ・アムステルダム生まれ。ライデン大学で神学を修めプロテスタントの牧師となった(カルバン派)、世界の歴史、伝記、地理などの著述家にして、当時のベストセラー作家。

モンターヌスの「東インド会社遣日使節紀行」:Gedenkwaerdige gesantschappen der Oost-Indisch maestschappy in 't Vereenigde Nederkland, aan d kaisaren van Japanm Amasterdam :  1669年アムステルダム刊。


原著、翻訳版共に入手できていないため、日文研の古書アーカイブスから図版と解説を借用。


表紙




モンターヌスの本書は、コメリンの出版から20余年後に出された大部の日本紹介の書籍である。17世紀後半になると「鎖国」政策の影響が現れ始め、日本関係の新しい情報が乏しくなる。カロンの1661年ロッテルダム再版に続いて出てきたのが、このモンターヌスの「東インド会社遣日使節紀行」1669年アムステルダム刊である。しかし、これまでの日本関係書とは異なる性格の本である。これまでは、実際にアジアで、日本で、日本人と出会い、日本に滞在し、仕事をし、生活しそこから得られた情報を日記や報告書として記録にしたものであった。いわば布教活動や商業活動などの仕事上の記録や報告書、手紙などを編纂したものであって、出版を目的としたものではなかった(リンスホーテン「東方案内記」出版を除く)。執筆者も著述を専門とした作家ではなかった。しかし、このモンターヌスはカルバン派の聖職者ではあるが、同時に職業作家であり、当時のベストセラー作家であった。日本に一度も行ったことも、日本人に会ったこともない。しかし、日本からの最新情報が入りにくくなっていた時期に、網羅的に日本を扱った初めての書籍である。本書の企画は地理書の出版社として知られるヤーコブ・メウルスが日本に関する本の執筆をモンターヌスに依頼したもの。メウルスは1665年に「東インド会社遣清使節紀行」(「中国誌」)を刊行し、ベストセラーとなっていたので、その第二弾を狙ったようである。内容は徳川将軍へ派遣された数次のオランダの使節団の旅行記(商館長の江戸参府日記)を基にした日本紀行である。これらはオランダ東インド会社の機密文書であったはずなので、どうやって詳細を知り得たのか疑問に思うところである。公式記録である商館長の日記や報告書ではなく、側近の私的な日記や写本を集めて利用したのであろうと言われている。また過去のイエズス会の書簡集、報告書類や、コメリン、マッフェイ、リンスホーテン、カロン、からも多くを引用している。これらを旅行記仕立てで編集し、モンターヌス独特のその場にいるような臨場感溢れる描写が読者を惹きつけた。またこの本には100点近くの図版が挿入されている。これらの図版は、来日したことのない画家や版画家の手になるもので、日本を実際に見聞して写実的に描いたものではない。今見ると現実とはかけ離れた奇妙で、エキゾチックな姿に描かれている。しかし全くの想像で描かれたものとも言い切れず、不思議な写実性も備えているところが驚きである。平戸、長崎、京都や大阪、江戸の都市図や地理についても具体的で詳細な描写である。おそらく商館員のスケッチなどを参照した上で想像を膨らませて描いたものと考えられている。こうしたモンターヌスの構想力、想像力、描写力によって人気のベストセラー旅行記となり、ドイツ語、フランス語、英語に翻訳され、日本がヨーロッパ人にとってとっても身近な存在に感じられるようになっていった。一方で、現代の日本人にとっては、当時の「ヨーロッパ人が見た日本」という、ユニークで物珍しい印象の稀覯書として珍重されることななる。しかしこれ以降のまとまった日本関係情報は、ケンペルの「日本誌」1727年の英文版出版まで途切れてしまう

2021年10月26日「古書をめぐる旅(16)ケンペル「日本誌」


締めくくり

今回は、オランダ人の目で見た日本を紹介した。原資料はゴシック体(ブラックレター)のオランダ語であるので解読に苦労した。またオランダ語自体も古い時代のもので、現代のGoogle翻訳では訳出不能な記述が多いが、幾分かは推測可能である。しかし英語版や日本語訳されたものを参照しながら内容を推理するのも楽しかった。また、国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授の著作「十七世紀のオランダ人が見た日本」、日文研ウェッブサイト、古書アーカイヴスが非常に有益で役立った。もちろんもう一方の紅毛人であるイギリス人が見た日本についても紹介せねばなるまい。しかし、これはまた稿をあらためて取り組みたい。まだまだ日欧交流史は、足を踏み入れれば入れるほどに、終わりのない道のりが続く「底なしの沼」なのである。ボチボチやりたい。参考までに私にとって興味深い「カピタンの世紀」におけるイギリス人の「日本見聞録」関連を数点、下記にあげておく。次回以降、彼らの「日本見聞録」を読み進めてみたい。今度は英語なので少しはマシな読み進めができるのではないか。


ウィリアム・アダムス:William Adams

言わずと知れたオランダ船リーフデ号で豊後に漂着したイギリス人の航海士。のちに家康の外交顧問として重用されて「三浦按針」として生きた「青い目のサムライ」である。

彼に関する過去のブログは:

2020年9月5日「ウィリアム・アダムスの江戸屋敷を探す」

2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」

「アダムス11通の手紙」彼が残した書簡集

「ウィル・アダムス伝」:Will Adams the First Englishman in Japan(1861年William Dalton著)伝記小説

ジョン・セーリス:John Saris

1613年にイングランド国王ジェームス一世の親書を携えてクローブ号で日本にやってきたイギリス人。平戸に初めてのイギリス商館を開く(リチャード・コックス商館長)。アダムスとの交流と確執の物語を持つ人物。

「日本航海記」:John Saris's Voyage to Japan(1900年アーネスト・サトウ編、ハクルート協会叢書)

ジョナサン・スウィフト:Johnasan Swift

「ガリバー旅行記」:Gulliver's Travels Several Remote Nations of the World 1726年初版

世界中で愛読されている風刺小説。1699〜1715年までの架空の国々への旅行記。1709年には日本に滞在、将軍に会ったとしている(唯一現実に存在した国)。