ページビューの合計

2024年4月26日金曜日

小石川後楽園に新緑を愉しむ 〜なぜ水戸徳川家は尊皇攘夷の発信地であったのに明治維新を主導できなかったのか〜

 現在の小石川後楽園は、徳川家康の末子、頼房が開いた水戸徳川家の江戸中屋敷、のちの上屋敷とその庭園の跡である。東京ドームや後楽園ゆうえんちもその敷地内にある。「黄門さま」こと二代光圀はここで生まれ水戸藩主となり、あの大日本史を編纂した。幕末の「烈公」こと斉昭が最後の主となった江戸藩邸である。最後の将軍徳川慶喜は斉昭の子である。代々水戸徳川家は領国には住まわず江戸藩邸に常住した。

水戸徳川家二代目の光圀は大日本史編纂し、万世一系の天皇が治めた国の歴史を明らかにし著した。長らく途絶えていた日本の通史の編纂を、いわば徳川御三家とはいえ一大名家が取り組んだわけで、この事業はかなり藩の財政にも大きな負担となった。ちなみにこの資料調査で水戸藩士が全国を行脚した話が、黄門さまと角さん助さん漫遊記の元となったとも言われる。史実とは異なり少なくとも黄門さまが全国を旅したという記録はない。ともあれこの歴史書の基本である「天皇を中心とした国の有り様」という理解とその尊皇思想は、水戸徳川家に代々伝わり、外来の思想である仏教や儒教よりも日本古来の国学を重んじる「水戸学」の揺籃となった。いざという場合は徳川宗家より天皇を守ることが家訓であった。「安政の大獄」で斉昭が蟄居となったことがきっかけで起きた水戸浪士による「桜田門外ノ変」や、イギリス大使館を襲撃した「第一次東禅寺事件」、尊王派のクーデター「水戸天狗党の乱」など過激な尊皇攘夷運動を展開した。その影響は外様である長州や薩摩に広がり、幕末の尊皇攘夷運動の発火点となり、やがては討幕運動へと発展していった。

しかし、水戸藩は結局、尊王派と佐幕派の内部対立が激しく、尊皇イデオローグ藤田東湖の死、その子藤田小四郎の死、天狗党/諸政党の藩士同士の壮絶な殺し合いなど、有為の人材が払底してしまうなど、尊皇攘夷運動をリードしたにも関わらず、明治新体制の構築のフェーズでは存在感を失う。明治新政府で活躍する水戸藩出身者は見えない。尊皇派と佐幕派の対立。これは幕末の大藩ではよく見られたことであるが、尊皇攘夷の発信地であった水戸においてすらそうであったのは皮肉である。しかし明治天皇は、維新後に水戸徳川家に行幸。光圀や斉昭の残した書画を天覧。その尊王の志を偲んだ。そして、その代々の功績と大日本史編編纂事業への貢献を讃えて、二人に正一位を追贈している。また水戸家当主は公爵に列せられ、御三家の中で最も高い爵位を受けた。徳川御三家とはいうものの、尾張、紀伊とは異なり石高も少なく、三代将軍家光の時代になってようやく御三家の一員となった水戸徳川家で、藩主の官位も尾張/紀伊が大納言であったのに対し、水戸は中納言。しかし、その尊王思想において徳川一門の中で一際異彩を放っていた。明治以降の皇国史観、万世一系の天皇、神国日本、廃仏毀釈などという思想はここから始まった。

新緑の水戸徳川家の庭園を眺めながら、そんなことを妄想していたら空が曇り始めてきた。帰るとしよう。ふと辺りを見渡すとここも外国人観光客で溢れている。Welcome to Japan! Spend more money! 日本はそんな国になりました。明日からは連休だ。しかし日本人の海外出国はなりをひそめている。円安、いや円弱ニッポンの国力衰退ぶり、金で回る政治のグダグダぶりを水戸の御老公に喝入れてもらわねば。「この印籠が目に入らぬか!」「へへ〜っ」。あの気持ち良い「これにて一件落着」。そんなことを期待するばかりである。




























(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)