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2025年9月25日木曜日

NHK朝ドラ「あんぱん」いよいよフィナーレ 〜父の従姉の「ファミリーヒストリー」〜

 


1950年代後半のやなせたかし、のぶ夫妻

「おむすび」からバトンタッチした「あんぱん」。そのNHKの朝ドラ「あんぱん」が、いよいよ今週でフィナーレを迎える。やなせたかしの妻、暢(のぶ)をモデルとしたドラマである。主人公「朝田のぶ」「柳井のぶ」として登場する。朝ドラとしては高視聴率でドラマを毎日楽しみに見ていた。主人公のことが気になって見逃しは再放送を見たりしてフォローしていた。それはこのドラマが面白いからというだけではない。私にはもう一つ別の関心があったからだ。

主人公「朝田のぶ」のモデル「池田暢(のぶ)」は、実は私の父の母方の従姉である。私には親戚のおばさんなのである。しかし今までどのような人生を送ってきた人なのかあまり知る機会がなかったので、ドラマから何か足跡がたどれるかと楽しみにしていた。私が子供の頃、祖母から「漫画家やなせたかし」の話はよく聞かされた。まだアンパンマンがヒットする前でそれほど売れっ子というわけでもなかった時代だ。祖母は「やなせが...」「たかしが...」とまるで親戚の子供のことのように話していたのを覚えている。高知出身の「名高い」漫画家だと自慢していた。最初はやなせたかしが祖母の甥かなにかと思っていたが、どうもそうではなく、その嫁さんが祖母の姪であるらしいことがだんだんわかってきた。夫唱婦随の仲の良い夫婦だと言っていた。むろん子供の頃はそんな親戚関係に興味もなかったし、多分会ったこともなかったかもしれない。「漫画家のやなせたかしは親戚だそうだ」。「その嫁さんが父の従姉らしい」くらいのことで済ませていた。

ところが、時代は移り変わり今や、やなせたかしはアンパンマンブームで超有名人だ。そこへ今年のNHK朝ドラ「あんぱん」のヒット!しかも今回はやなせたかし本人ではなく、その嫁さんの暢が主人公だという!つまり「父の従姉」がヒロインのドラマだ!ということで、もう少し暢さんについて知りたくなった。しかし、時すでに遅し。祖母も亡くなり、父も亡くなり、詳しいことを聞く人もいなくなってしまった。祖母は我が家の「語り部」であった。記憶力抜群で我が家のルーツや家族の昔話を祖母から聞かされた。晩年は耳にタコができるほど同じ話を聞かされることもあったが、おかげで我が一族の「ファミリーヒストリー」が「口頭伝承」されてきたと言っても良い。しかしそれももう聞けない。もう少ししっかり聞いておけばよかった。『暢おばさん、あなたは一体どんな人だったの?」

しかし、こうしたドラマがヒットすると面白いのは、その登場人物のモデルとなった人々の実像、エピソードを発掘するライターがゾクゾク出てきてネットに投稿することだ。NHKのウェッブサイトにもこのドラマの脚本家の中園ミホ氏のインタビュー記事が出ている。主人公の「のぶさん」について色々調べたようだが、やはりやなせたかしはともかく、その妻の情報は極めて限られていたようである。主人公のイメージを創出するのに苦労したという。しかしそこはネット時代。ドラマがヒットすると、やなせたかしの自伝『やなせたかしはじまりの物語』をはじめさまざまな情報がネット上を飛び交う。おかげで私もここへきてようやく、今田美桜演じる主人公の「朝田のぶ」、いや父の従姉、祖母の姪「池田暢」がどんな人であったのか少しずつわかってきた。ネット上にはさまざまな情報が散在するが、元ネタは限られているようで、行き着くところは先述の自伝や高知新聞の記事や同僚の証言のようだ。不確かな書き込み、出典不明な写真もあるが、それらを突き合わせ整理するとだいたい次のようになる。初めて知ることが多いが、なるほどと思い当たることもある。


池田暢(のぶ):「朝田のぶ」「柳井のぶ」のモデル

 1918年(大正7年)大阪生まれ。池田鴻志(こうし)と登女(とめ)夫婦の三姉妹の長女。大阪の阿倍野高等女学校を出て、一時高知に移り、1939年(昭和19年)そこで日本郵船に勤めていた小松総一郎と結婚する。しかし終戦の年に夫は病死。戦後の1946年(昭和21年)高知新聞に入社し、初の女性記者として雑誌の発刊などに活躍。この時やなせたかしと出会う。その後に上京し高知選出の女性代議士の秘書に。1947年(昭和22年)に東京でやなせたかしと再婚。「困った時のやなせさん」「遅咲きの漫画家」と言われたやなせたかしを支え、叱咤激励した「はちきん」(男まさりの女性)の嫁さんであった。まさにNHK朝ドラ主人公にうってつけのヒロインであった。しかし実生活では表に立って活躍するというよりも「内助の功」的な役割に徹していたと聞く。それでもお茶の先生をしたり、趣味の登山を楽しんだり、自分の世界もしっかり持っていたようだ。1988年(平成元年)末期の乳がんが見つかり余命3ヶ月と宣告されるが、たかしの献身的看病と抗がん剤治療が功を奏し回復。その5年後の1993年(平成5年)に亡くなっている。二人に子供はいない。

一方で、私の父は1920年(大正9年)生まれなので,暢は2つ上の従姉である。父も大阪生まれ。天王寺区北山町で生まれ、旧制高津中学を出ている。暢が住んでいた阿倍野とは近かったので、それなりの行き来があっただろう。それらしいいとこ同士の集合写真も出てきた(後述)。しかしあまり祖母からも父からもこの従姉、暢の生い立ちや大阪での生活を聞いたことはない。祖母にしてみれば早くに兄が亡くなってしまったので姪たちとは多少疎遠になったのであろうか。その後、東京へゆき、やなせたかしと再婚したころから「あの暢ちゃんが!」ということになったのだろう。

ところで暢の父、祖母の兄、池田鴻志とはどのような人物であったのか。ドラマでは「朝田結太郎」として登場し、家業は継がず海外を飛び回る商社マンとして活躍するが、海外出張の帰国途中で急死する。この父は開明的な考えの持ち主で、「のぶ」の成長物語において新しい女性としての生き方を支持し、暖かくその未来を応援する役回りである。


池田鴻志(こうし):「朝田結太郎」のモデル

 1885年(明治18年)高知県安芸郡安芸町生まれ。実家は裕福な商家であった。高知商業、大阪の関西法律学校(現関西大学)を出た後、しばらく高知にいたようだが、長男であったが家業を継がず、1916年(大正5年)、当時の日本最大の総合商社鈴木商店にスカウトされ、傘下の九州炭鉱会社に赴任。その後に大阪本部の木材部をへて台湾嘉義木材経営のため台湾赴任。さらに1919年(大正8年)には北海道の開発に拠点、北海道釧路出張所長、監査役を歴任。1924年(大正13年)39歳の若さで釧路で病死している。暢が6歳の時である。洋洋たる商社マン人生をおくったようで、当時の釧路日日新聞刊行の『釧路の人物』に彼の経歴や功績が紹介されている。死亡にあたっては官報、新聞に訃報が掲載されたことなどの記録が残っている。この時家族を大阪に残して単身赴任していたようだ。忙しい仕事の中で家族、特に娘たちにどのような影響を与えたのか。それに関する記録や証言、エピソードは見つかっていないが、後述のように3人の娘を高等女学校に進学させ、それぞれに結婚しても自立した女性として生きていったので、未亡人となった母、登女の教育を通じて父の薫陶を受けたものと考える。

祖母も高知安芸生まれの高知育ち。おそらく子供の頃は両親の下で兄の鴻志と一緒に安芸で育ったはずだ。しかし祖母からは、兄が高知商業出の商社マンであったという話以外、あまりこの「大叔父」のエピソードを聞かされた記憶はない。祖母の母(私にとっての曽祖母)ことは何度か聞かされた。ドラマでは浅田美代子が演じる「くらばあ」、すなわち「のぶ」のおばあちゃんである。わたしの祖母が小学校の時、級長に選ばれたので、母を喜ばせようと「級長になった」と耳元で小声で報告すると、「そうかえ」と一言だけ。そして臨終の床で「なんちゃあじゃ無いもんじゃ」と一言つぶやいて旅立った。この人生を達観したような、ややペシミスティックな「曽祖母」の話は祖母から何度も聞かされた。祖母にはこのほかに姉の金恵がいて、大阪の真珠商池田久寿弥太に嫁いでいた。この一家とは祖父母、父ともに付き合いが長く、高知を出て大阪・天王寺に居を構えていた祖父母とともに、西宮夙川、奈良と転居をともにした間柄である。孫の私も、奈良に隠居していた「池田のおばさん(大叔母)」「真珠のおばさん」に可愛がってもらった。この「池田のおばさん」こそ小柄なのに「はちきん」の代表のような女丈夫で、まさに大阪の船場の「ごりょんさん」さんであった。こちらはこちらで、ドラマ顔負けの波乱に満ちた物語を紡いできた一家で、小説やテレビドラマになってもおかしくないが、今回はここまでにしておく。


池田三姉妹、暢(のぶ)、瑛(えい)、圀(あき):「のぶ」「蘭子」「メイコ」のモデル

暢が6歳の時に父、鴻志が亡くなったわけで、この時はまだ暢たちは大阪にいた。家族は母、登女(とめ)、次女、瑛(えい)、三女、圀(あき)であった。ドラマのように祖父母と一緒ではなかった。父が亡くなっても大阪にいて高等女学校まで出ているのだからそれなりに裕福であり、教育熱心であったのだろう。ドラマで次女の「蘭子」のモデルとなった瑛は1920年(大正9年)生まれ。父と同い年だ。暢と同じ阿倍野高女を出て、教員となり同じく同僚の教員の曽我部鹿一と結婚、2男1女を設け、満州に渡る。やがて夫は現地で召集され戦死し、終戦とともに地獄の逃避行を経験して日本に引き揚げてきた。この姪の経験した悲劇は祖母から聞いたことがある。それが暢の妹の話だということが今つながった。東京で暢の計らいもあり、上京しやなせたかしの秘書となり、事務所の経理や編集者との交渉など重要な仕事に従事した。現在「やなせスタジオ代表」で、やなせたかしの思い出を綴った『やなせ先生のしっぽ』の作者、越尾正子(ドラマでは古川琴音演じる「中尾星子」のモデル)は、高齢となった瑛(2003年(平成15年)没)の後任として暢の依頼で入社し秘書をつとめたという。結局、暢が先に他界したので、晩年のたかしを公私に渡って世話をし見送ったのは越尾正子である。三女の「メイコ」のモデルである圀(1924年(大正13年)生まれ?)に関する情報はほとんど残ってないようだ。子供の頃「宝塚音楽学校に進学したい」と言っていたという話が、先述のやなせたかしの自伝に出てくるが、これが唯一の情報。これが歌手志望でミュージカル「怪傑アンパンマン」にメイコが出演するストーリーになったのか。祖母や父からもこの三姉妹の話を詳しく聞いたことはなかったので、父の従姉妹たちの人生について今回多少なりとも知ることができたのは幸いである。


このように実際の池田暢の人生は、ドラマの設定とはかなり違っている。「朝田のぶ」のモデル池田暢の情報が限られている分だけ、脚本の自由度が大きくストーリーを豊かにすることができたのであろう。中園ミホ作品は秀逸である。ドラマでは「のぶ」と「たかし」が同級生で幼馴染であったことになっているが、先述のように暢は大阪生まれの大阪育ち。柳瀬嵩は東京生まれの高知育ち。実際にはこの二人は高知新聞勤務時代に初めて出会っている。「のぶ」の実家「朝田家」は高知市後免の石材店となっている。「のぶ」の父、「朝田結太郎」が商社マンで家業を継がずに外地へゆき、早世した点はモデルの池田鴻志の人生をなぞったものだが、池田家は先述のように安芸の商家であり高知ではない。父、鴻志は暢が6歳の時に亡くなっている。ドラマよりはかなり早く亡くなっている。またドラマでは「のぶ」の妹の「蘭子」の「八木信一郎」との恋物語が後半の伏線だが、「蘭子」のモデル瑛は(先述の通り)満州で夫を亡くし子供3人を連れて引き揚げてきた苦労人であった。「メイコ」に至ってはそのモデルの圀の情報がほとんど残ってないので、先述のようなストーリーが創出されている。祖母が語っていた通り、実際の暢の性格も「はちきん」であったし、二人はとても仲の良い夫婦であったこともドラマで描かれている通りだ。「夫唱婦随」であったというのはどうなのか。ただ「夫に従う妻」ではなく、お茶を教えたり、登山を楽しんだり活動的な女性であったようだ。ただドラマの「柳井嵩」がハンサムすぎて線が細くて、やや暢の尻に敷かれているように描かれており、実際のやなせたかしとはキャラがかなり違う感じだ。余談だが、ドラマの登場人物の高知弁は、私の祖母から聞かされてきたネイティヴ高知弁とちょっとずつ違う。特に連発する「たまるか〜」は、ホントは「たま〜るか」なんだけど...

まあそんな細かいことはこのドラマを楽しむにあたってはどうでもよい。このように主人公の実像に関する情報が少ないので、脚本でいくらでも面白く描ける。それがドラマ(フィクション)だしエンターテイメント作品としてこれだけ多くの人に楽しまれているのだからそれで良いだろう。私もこの物語を十分に楽しませてもらった。そしておかげさまで血縁関係にある暢おばさんの謎も、これがきっかけで少し解明された、我が家の「ファミリーヒストリー」にまた一つエピソードが加えられた。あの世で祖母も父も「あれえ、暢のことは話しちゅうろう?」と言ってるだろう。「いや聞いてないぜよ」。そして「たま〜るか!ドラマの暢はえらいべっぴんさんじゃいか」と笑っていることだろう。そういえば父はあんぱんが大好物だった。

次の朝ドラは「ばけばけ」、小泉八雲とその妻せつが主人公。これまでも「あんぱん」「ゲゲゲの女房」とおなじ有名人の女房が主人公というパターン。「マッサン」「らんまん」など内助の功物語が続いたが、この同じパターンでそれぞれのドラマに特色を出すNHK朝ドラ企画のウデも見上げたものだ。それは別として、次の小泉八雲とせつ物語は楽しみだ。内助の功物語だけで終わらないことを祈る。


池田鴻志家集合写真
前列、左から父、暢、登女(鴻志の妻)、瑛、圀
いつの写真か不明。父は旧制中学の制服だから13歳くらいか。ということは暢は15歳で高等女学校時代

暢 高知新聞社時代か?

暢の父 池田鴻志(鈴木商店釧路出張所時代)
釧路日日新聞社刊『釧路の人物』掲載の写真

やなせたかしの自伝(高知新聞社刊)



やなせたかし/暢夫妻 1991年叙勲の園遊会で

園遊会で(共同通信写真)