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2021年6月19日土曜日

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay (アーカイブス): 豊後杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜


今から5年前、2016年6月の豊後杵築への旅を振り返るノスタルジックアーカイブス。最も印象に残った街。美しい街並みに美しい人々。いや美しい人々が住まう街は美しい。もう一度訪ねたい街。



時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 豊後杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜: 城下町杵築は坂の町  杵築は国東半島の南の付け根に位置する小さな城下町だ。高山川と八坂川に挟まれて守江湾に面した要害の地。江戸時代は豊後杵築藩3万2千石。徳川譜代の能見松平家の城下町で明治維新まで続いた。国東半島の南半分が領国。戦国時代には大友氏の家臣であ...

2021年6月4日金曜日

コロナワクチン狂騒曲「上は三流でも現場力はすごい!」 〜日本を支えているのはエリートではない?〜

 

東京大手町の自衛隊大規模接種センター

コロナワクチンの高齢者への接種が始まった。はじまるまでは混乱の極みであったが、ようやくぼちぼちと接種が進み始めた。ここへきて日本の接種の遅れが顕著となり、それを内外から批判されているからか、首相は7月末までに高齢者接種を完了させると言い出した... 遅きに失するとしか言いようがないが、そもそもワクチンは全て海外からの輸入頼みで、必要な数量の確保がまだできていない。自治体への配分もどういう基準でなされているのか、余る自治体があるかと思えば、全く焼け石に水程度しか入ってこない自治体もある。概して大都市への配分は微々たるもの。接種は市区町村に丸投げでその対応がまちまち。予約システムもにわか開発(業者丸投げ)で仕様もまちまち、医師看護師確保もまちまち。高齢者が予約すら取れずに右往左往する。接種が早々と終わったところがあるかと思えば(概して小さな町村)、なかなか進まないところ(概して大都市)も。ちまちま、まちまち... 

しかし、東京、大阪では5月24日から防衛省/自衛隊(医務官、看護官と民間看護師、民間サポータのチーム)による大規模集団接種が始まり、まちまち自治体をよそに着々と接種を進めている。ワクチンはファイザー製ではなく、認可されたばかりのモデルナ製。これを見習って都道府県でも大規模接種会場を設けて接種を進める体制を取り始めた。我が家も5月29日に予約が取れ、タクシーで高齢の母を連れて大手町の接種会場にゆき、第一回目の接種を終えた。とりあえずほっとした。会場はそれなりに高齢者で混雑していたが、受付から問診、接種まで驚くほどスムースに進み、二回目の予約も終えた。スタッフのお年寄りに寄り添ったサポート(椅子を出す、車椅子準備、待たせない、介助必要な人向けの介助要員の待機など)、無駄のない人流コントロール、テキパキとした対応に驚かされた。自衛隊だからなのか、統制のとれた現場力が半端でないことに驚いた。ワクチン対策はこれ迄すったもんだして、混乱の極みであったが、いざ動き出すと現場は驚くほどのパワーを出して接種を進めている。日本を支えているのは「上の人」ではなく「現場の人」であることを痛感した。自治体の接種現場も同様に一人一人の努力で支えられているのであろう。ちなみに我が地元の某区の接種を待っていたらいつのことかわからない(見通しがつかないのが一番困る)。予約開始になっても電話もネットも繋がらず予約が取れない。90歳を過ぎた母の予約の見通しが立たないのには参った。しかも65歳以上は6月中旬から予約開始だと!遅すぎる。接種会場は数こそ多いが一ヶ所あたりの接種回数は極めて限られていて、近くの会場はすぐに満杯。やはりこういうことは大規模にやるか、かかりつけ医や老人宅への訪問接種などこまめにやるかだろう。スケールの小さい市区町村に丸投げしての中途半端なお役所仕事では混乱だけが起きる。予約システムについても自衛隊の方は、極めて合目的的に割り切った予約システムとなっている。区の予約システムうのようなめんどくさいID/PWの設定などない。氏名や住所の投入もない。市区町村から発行された接種券番号と区市町村番号、それに生年月日。この3点をいれるだけ。簡単!その結果システムは軽くて、投入時間も短く輻輳しにくい。本人確認は現地で受付時にバーコードで行う。極めて簡単だ。一方で市区町村の住民情報データベースとリンクしてないので、予約時に本人確認ができない(接種権番号を出鱈目に入れても予約できる)。また市区町村と二重予約が起きる。これは「重大な」欠陥だ!とマスコミが大騒ぎした。しかし、これはもともとシステム設計者の想定済み。とにかく接種予約という目的に特化した簡単な手順にして混乱を誘わないようにすること。自治体の住民情報データベースから遮断して個人情報への不正アクセスを断つこと。この二つに配意した結果だ。そしてうまく行っている。みんな不安だから二重予約する。それをやめろというなら安心して確実に摂取できる体制にすべきだろう。そして市区町村の方はキャンセルしようとしてもまたウェブサイトにアクセスできないという悪循環。非常時のシステムはどうあるべきか、やはり防衛省/自衛隊の方が一日の長がある。今回防衛省/自衛隊の中でも、ワクチン集団接種という本来業務ではないことをやるべきか省内で議論があったという(いかにも役人が問題視しそうなテーマである)。しかし、非常時に国民の生命と安心安全を守るのはまさに自衛隊の仕事との判断。何よりも医務官、看護官の積極的な参加意思表示があり幹部の意思決定を後押ししたようだ。災害出動でも大きな成果を挙げ、実績を積んでいる自衛隊ならではである。このようなパンデミックにおける国防の役割を果たす有事対応能力を見事に示した形だ。自衛隊の株は大いに上がった。

それでも日本の接種率はまだ全国民の2%程度で、世界の中でも最下位レベル。アメリカはすでに41%、イギリスが39%になっており、1日の感染者数も激減しているしイギリスは死者数0となった。課題はさらに接種率を上げて国レベルの集団免疫をいかに早く獲得するかに移っている。すでにロックダウン解除が進み、経済活動が再開されている。そこで日本の政府は今度は接種率を上げるために、高齢者でなくとも接種を進めるとして、64歳以下を対象に、企業、職場や大学での接種を今月から始めると言い始めた。政治や役所の人のフリを見ないと動き出さない体質丸出しだが、それにしても口で言い出すのは勝手だが、やるのは現場の人間だということをわかっているのか。結局、実行は「現場力」頼みだ。しかしこうなると接種率という数字を上げるために、高齢者の接種は完了した(「完了」ではなく「終了」させる!?)として先を急ぐつもりなのかと勘ぐりたくなる。まだ接種できてない高齢者がいるのに切り捨てなのか?まさか弱者切り捨てて数字だけ上げるつもりではないだろうな。何と医療従事者ですらまだ接種が完了していない。依然として上の方は思考プロセスと判断基準の混乱が収まっていないようだ。本当にどうしてこんなに情けない国になってしまったのだろう。

なのにオリンピックだけは強行しようとしている。この背景にはIOCのゴリ押し(IOCのコーツ発言「緊急事態でもやる」)があるということもわかってきたが、それに抵抗できないホスト国政権トップの情けなさ、優柔不断。いや本音は「止めるとオレの政治生命がヤバイ」が原因であることもわかった。政府専門家分科会の尾身会長もついに、「こんなパンデミックでは普通はオリンピックなどやらない」と言い出した。医師もオリンピックへ協力は今の状況ではできない、と協力辞退を言い始めている。大会ボランティアもすでに2万人が辞退した。国民の間でも世論調査では80%以上が中止か延期。ネット上での開催反対署名も50万件を超えた。金と政治にまみれたオリンピック。国民の理解が得られないオリンピック。誰のための何のためのオリンピックなのか。仮に感染の問題が薄らいだとしても、とっくにオリンピックの開催意義を失われている。あと50日に迫っているのだが、すっかり色褪せて興醒めとなったオリンピックは果たしてどんな塩梅になるのか楽しみだ。じっくり観察させていただく。TOKYO2020は後世にどんなオリンピックとして記憶されるのだろう。少なくとも「人類がコロナに打ち勝った証」とか「こんな時だからこそ人類が分断を乗り越えて」とか評価されることにはならないだろう。

このコロナパンデミック騒動では「上は三流でも現場力はすごい!」を実感させられた。この言葉は日経ビジネスの5月25日のコラムに掲載された河合薫氏の表題をもじったものである。まさに、指摘の通りこれが日本の底力だ。一旦やると決まれば現場はどんどん動く。人は知恵を出す。きめ細かい配慮や、行き届いた心配り、「おもてなし」など本領発揮である。しかし、そこへ至るまでの上部の意思決定プロセスとコミットメントがグダグダであることが多い。これは政治の世界でも、官僚の世界でも、企業の世界でも言える。今回のパンデミックは大きな組織におけるリーダーの役割と責任と能力の問題を白日の元に晒した。現場や社会の実情を見もせずに、現場から遠く離れた会議室の机上で抽象的な現状分析をして、具体性のない判断をし、結果を直視しない。かといって大局的なビジョンもなく、突破力もないリーダーたち。そもそも大きなエスタブリッシュされた組織ほどその閉鎖組織独特の(外部からは窺い知れぬ)ロジックが優先されて、それに基づく人事でトップや幹部が決まり、その人物がそのロジックに基づき意思決定する。そういう仕組みが、いざというときには役に立たないということを見せつけられた。すなわち「頭の良い人たち」が集まって「頭の悪い結論に至る」である。いわゆる進学校から一流大学を出てとんとん拍子でエリート街道まっしぐら。もちろん人にもよるが、不測の事態に対応する能力や、何もないところで新しいゴールを設定して結果を出す能力は涵養されてこなかったのが日本の社会的エリートだ。結果に対する責任の負い方も知らない。失敗するリスクを避ける「大過なく任期を全うする」が金科玉条である。今回のケースは、現役時代の理不尽と無力感、隔靴掻痒を覚えた経験を思い出させる。エリートではないが、いくばくかの組織を率いる地位にいたこともある自分を顧みても、苦い出来事に「心当たり」がある。適切かつ合理的な意思決定ができなかったことに愕然とさせられたこともある。理にかなった結果がついてこないのだ。こうした失敗はたいていは現実に起きていること、起きるであろうことを正しく認識していなかったことに起因している。あるいは理解していても、判断する際のロジックが現場の実態とかけ離れていることが多かったように思う。結局「合理的な」判断と意思決定とは、現場の問題をストレートに解決するものでなくてはならない。当たり前のことのようであるが、それができていないのが現実である。トップやリーダは、その結果生じる組織内ロジック違反の理不尽さを受け入れる覚悟と度量が必要だ。あのときに投げかけられた「エライ人はいざというときには役に立たない」という言葉がいま、脳内をぐるぐると駆け回り、心中をかき乱す。自省しても時すでに遅しである。

2021年5月12日水曜日

「根拠のない楽観主義」「神風」は日本の宿痾なのか? 〜「この道はいつか来た道」〜

 

「かくて日は沈み 一将功ならずして 万骨枯る」

コロナパンデミック対策、ワクチン接種で混乱が続いている。感染は大型連休を前に大波である第四波を迎え、政府は重い腰を上げて3回目の「緊急事態宣言」を出した。短期集中と称し連休明けの5月11日に終わる予定だったが、東京に限らず大阪や兵庫など関西圏は変異ウィルスによる感染者数が首都圏を上回り、しかも重症患者が急増し医療崩壊の瀬戸際となるありさま。さらには福岡、愛知など地方の都市中心にこれまでにない感染者数を記録し続けている。まさに全く感染が収束する見込みはなく、毎日6000人以上の感染者数を記録し、死者数も1万人を突破するなど止まるところを知らない勢いである。したがって緊急時事態宣言を福岡、愛知にも広げ31日まで延長することとした。しかし、度重なる「緊急事態宣言」や「蔓延防止対策」、「休業要請」と「時短要請」での乱発で、人々は何がいけなくて何がいいのかわからなくなっている。国民は自粛疲れというよりは徹底しない小出しの「自粛要請」の連打に「オオカミ少年」状態で、パンデミックを押さえ込む効果が薄れてきている。いくら総理大臣や担当大臣、自治体の首長が「密を避けて」「協力をお願い」などと言っても人流は一向に減らない。事業者側は休業要請や時短要請に応じてもその補償は不十分である。一方でワクチン接種は遅れに遅れて、医療従事者の接種率もまだ23%。高齢者(対象者3600万人)の第一回接種率など1%未満と、世界でもっともワクチン接種が遅れている国のグループに属しているという体たらくだ。厚労省のワクチン認可も遅すぎる。緊急事態に対応したものではない。ワクチン確保は完全に失敗した。そしてワクチン接種体制も混乱中だ。もちろん世界中どの国も未曾有の出来事で失策や試行錯誤はあるものの、トップがリーダーシップを発揮してその失敗に学び、軌道修正していった国もあることを知るべきだろう。日本の状況は一時は感染爆発で対策に失敗したと言われたアメリカやイギリスが、バイデンやジョンソンのリーダーシップで急速にワクチン接種を進めて感染者数の激減を実現させているのと対象的だ。

ワクチン開発競争から取り残され、その確保に失敗し、その結果としての接種の遅れは今更だが、市町村などの自治体に丸投げされている接種体制も混乱と人員不足を来たし、高齢者向け接種体制など、ある種の惨劇を見るようだ。インターネットも、スマホも使ったことのない75歳以上の高齢者にネットでの予約を強い、それができないなら電話で予約。その電話は何度かけても繋がらない。困り果てて役所の窓口に押しかける老人たちは、ここでは受け付けないと門前払いされて、途方に暮れ立ち尽くす。まさにワクチン難民だ。可哀想で涙が出てくる。そもそもいつになったら高齢者接種が終了できるのか、その目標も明確でない。首相はそういう批判を受けて今日になって「7月までには完了させる」と言ったそうだが、言うだけなら誰でもできる。それをやるのは現場の市町村と医療従事者。国はやれるための具体的な施策は示さない。国民に「お願い」しかしない政治リーダー。政治は何を行わなくてはいけないのか分かっていないようだ。政治の無為無策、迷走、思考停止、暴走は目を覆いたくなる。

感染は変異ウィルスがいまや大層を占めて拡大している。検疫体制が脆弱でイギリス型変異ウィルスの日本への侵入食い止めに、ここでも失敗した。あっという間に増え、いまや感染の80%はこのイギリス型変異ウィルスだと言われている。ウィルスは感染が拡大するに伴って変異が進むと言われているから、とにかく早期に感染数を抑える必要がある。これに失敗するとインドのように変異ウィルスによる感染爆発が起きる。インドでは1日の感染者数が40万人を超え、1日の死者数が3600人という恐ろしい事態となっている。もちろん医療は崩壊し、医者に見てもらえないまま死亡する人が出ている。そして死者の火葬すらできない。このインド型が入ってくると目も当てられないことになる。一時はアメリカやイギリス、EU諸国がこの危機にあったが先述のように、初動の失敗を反省して、トップのリーダーシップで対策を一変させて抑え込みに成功しつつある。

日本は「民度が高い」国だから、「ファクターX」の国だから、感染など広がらないのではなかったのか?コロナで1万人の死者が出ているのに「さざ波程度で笑わせるな」と宣った某内閣参与がネットでバッシングされている。この民を見下した態度...そんな人間が政権中枢にいる驚き。こういう事態においてもなおオリンピックを強行しようとする。「選手には無料のワクチン接種と医療従事者を選手村に常駐させて、必要なベッドも確保する。絶対に感染させないから安心してくれ!」とオリンピック委員会。「それができるならまず我々にしてくれよ!」と国民。ますます平和の祭典から離れてゆく。一方で開催強行に反発する一部の人間がSNSで、オリンピックに向けて努力しているアスリートに大会不参加表明を押し付けようとする。民心の乱れも引き起こし、高いはずの「民度」はどうなっていくのか。

国民に「お願い」しかしない政府、自治体とは何か?自助、共助ばかり「お願い」して公助はなし。「お願い」の内容は日々支離滅裂の度合いを増してゆく。感染が収まらないのは国民の自粛度が足りないからだ。政治の怠慢を通り過ぎて、無能を露呈し始めている。効果の出ない優柔不断な小出しの「打ち手」。専門家に相談して決める」と言いながら専門家の言うことは聞かない。科学的なエビデンスによる判断よりは、政治的な判断が優先する。世界最高を謳う医療先進国の医療崩壊。科学技術先進国のはずがワクチンは開発から製造まで全て海外からの輸入頼み。そして確保の失敗から来るワクチン不足。見たくない現実を毎日見させられる etc.etc.etc.

まあ、日々のニュースを見ていると、理念と言葉を持たない政治リーダーの迷走に次々と「文句」「皮肉」を言いたくなって止まるところを知らない。戦後の団塊世代にして70年安保/学生運動時代をくぐり抜けてきた昭和老人にとって老人性パラノイアを増進する怒りは精神衛生上良くないからこの辺にするが。

5月10日付の日経新聞のコラムに同紙の外交問題コメンテータの秋田浩之氏は、このコロナ混乱の政治のあり様を見て、昭和のあの時代の戦争に突入して敗戦に至る過程をなぞらえて、この政治意思決定プロセスは真珠湾攻撃以来80年何も変わっていないとの分析が掲載されている。今更だがまさに分析の通りだと考察。あえて加えれば、この80年に限らず、明治維新以降敗戦までの「根拠のない楽観主義」による戦争の歴史は、古代から続く「有事対応能力の欠如」の歴史の延長線上にある。誤解を恐れず言えば戦争/外交が下手な国家は「有事」に対処する視野、勘所、意思決定、突破力に欠ける嫌いがある。そうした思考回路が脳内に形成されず、また共有されていない。その結果、隣人を未曾有の戦禍に巻き込んだだけでなく、360万人以上の同胞が殺され、挙句に国土を外国軍隊に占領される完璧な敗戦という、「神州不滅」のはずの日本史上未曾有の事態に遭遇しながら、なおその経験と歴史に学んでいない。そしてまた同じことを繰り返す...これは日本の宿痾なのか?

振り返ればこの道はいつか来た道。宣戦布告もなく政治の意思決定もないままずるずると拡大していった日中戦争。合理的に考えれば勝てないことが分かっていたのに、日露戦争勝利という僥倖で憶えた「一撃講和」戦略で勝てると信じて開始した対米戦争。ドイツが降伏し、日本の負けがはっきりしているのに、全く当てにできるはずもないソ連に仲介による講和を期待した外交。連日の都市空襲、沖縄の陥落、広島の原爆投下、長崎の原爆投下、それでも「本土決戦」「一億総玉砕」を叫んで戦争を止めようとしなかった軍部。軍部独裁と言いながら軍部は終戦の責任を取らない無責任体制。終わらせ方のシナリオを持たずに始める戦争。最後は、超人的なパワー「神風」が国を守ってくれる。「神州不滅」神話に逃げ込む。そんなバカなと思いつつも、どこか漠然と万に一つの僥倖を期待する。そんな「根拠のない楽観主義」もまた日本人の宿痾なのか。政治のリーダーは国民を守ってくれないどころか国策戦争に駆り立て、最後は「お国のために死ね!」と言うのみであった。空襲があっても、老人、女性、子供しか残っていない市民を避難させるのではなく、バケツとハタキで消火せよ、と焼夷弾降り注ぐ街中にからの退去を許さなかった。こうした意思決定のプロセスと根拠を検証して、前者の轍を踏まない、後世に教訓として残すことができているのか。これをきちんと総括しないまま、戦後の冷戦構造の中での免罪符、その結果としての「高度経済成長」などに浮かれて、かつての失敗と責任と贖罪を忘却の彼方に追いやってしまう。こうした歴史に学ばない国の行く末は心許ない。ただこれは、中国共産党や韓国/北朝鮮の為政者たちが言う「正しい歴史認識」などとは全く異なる「歴史認識」であることを付言しておきたい。

今回のコロナパンデミックの混乱をみて、この国はこのままでは戦争になったら勝てない国だと確信した。逆説的だが、だから戦争をやってはいけない国だ。「有事」「戦時」と言う概念が日常の思考回路、制度や意思決定プロセスに存在してない。アメリカやイギリスなどの、かつての戦勝国には「平時」からこれがある。「戦時」「有事」を論じることががタブーではないし、「平時」の社会/経済システムに「有事」対応がビルトインされている。勝って兜の緒を締めよなのか、戦争慣れしているのか。またイスラエルのような準戦時体制下の国や、常に地政学上の緊張感に晒されている台湾の、コロナパンデミックへの対応は迅速かつ効果的であることを目の当たりにした。平和ボケした日本にそれを求めるのは難しいのかしれないが。今更ではあるが戦争は武器を使って軍隊が戦うだけではない。サイバーセキュリティーもパンデミックも戦争だ。ワクチンの日常からの確保は有事への備えである。経済戦争という有事にも対応遅れが出てくることになる。まあリーダーシップと責任なき政治に殺されるのはまっぴらごめんだというのが国民の本音だ。少なくとも今回、この国のリーダーにはその発する言葉とは裏腹に、国民の命と生活を守ると言う目線が乏しいことに残念ではあるが気付かされた。そんなどさくさに紛れて、国民目線を持たない無為無策の政治屋が憲法改正論議をリードしようとしているとすれば危険極まりない。国民をどこへ連れて行こうとしているのか。この国は主権在民の民主主義の国だということを主権者である我々がしっかり思い出して、主権者として振る舞わねばならない。そうでないとどこかの隣人のように選挙もない専制民主主義人民共和国になってしまう。彼らは我らの体たらくを見て、「だから民主主義なんて役に立たないのさ!」と悪魔の高笑いをしている。




2021年5月5日水曜日

「目黒インテリア通り」を歩く 〜ブラタモリ風「なぜ目黒通りはインテリア通りになったのか?」〜

 


目黒通りは、山手通りとクロスする大鳥神社交差点から、碑文谷、自由が丘あたりまでの数キロの間は「家具屋通り」あるいは「インテリア通り」と呼ばれている。なんと60〜70店ほどの様々な個性的な家具屋、インテリアショップが並ぶ。日本はおろか世界的に見てもこれだけの家具、インテリア関連ショップが建ち並ぶ通りはユニークだという。なぜこのような家具屋街、インテリア通りになったのかについては、後ほど解明してみたい。さて、JR目黒駅の西口を出て長い権之助坂を下り、目黒川を渡って歩くと山手通りとの交差点、大鳥神社を過ぎる頃からはまた上り坂となる。この通りは結構な高低差があることに気づく。この界隈は古くは目黒川を谷筋とする地形に開かれた街並みということになる。ちなみに目黒通り沿いに「元競馬場前」というバス停がある。ここには1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで目黒競馬場があった。ここで日本初の日本ダービーが開催されたが、わずか開催2年で閉鎖となった。ここには1マイル1600メートルのコースがあったが手狭であったことと、周辺が住宅地化していったことから、競馬場は府中に移転し現在のJRA中央競馬会東京競馬場となった。今でも重賞レース「目黒記念」にその名残を見出すことができる。住宅がびっしりと建ち並ぶ現在の街並みを見ると、ここに競馬場があったこと自体が不思議な感覚だが、かつては手狭な競馬場とはいえそれなりの広さを確保できる余裕があったのだろう。わずかにトラックのカーブの痕跡が住宅街の路地に残されている。


目黒競馬場の古写真(Wikipediaより)

ここでブラタモリ風「タモ手箱」が登場する!お題は「なぜ目黒通りはインテリア通りになったのか?」Ready? Go!

この通りは横浜から都心に向かう幹線道路で、沿線には自由が丘、碑文谷、学芸大学などの高級住宅地があり、セレブ御用達の店やレストランなどが立ち並んでいた。中でも目黒通り沿線には多くの外車ディーラーが並び、かつては「外車通り」との異名を持っていたという。一説では、そんなセレブ通りだから高級な家具/インテリアショップが進出してきたという。が、ちと話が出来過ぎていてやや「都市伝説」的である。もちろんそうした顧客向けの家具/インテリア店が存在していたことは事実であろうが、実際にはバブルの時代を過ぎ、その外車ディーラーの多くが撤退し、その跡地にインテリア関係の店が進出してきたというのが真相のようだ。確かに一定の敷地を確保できるし、地域柄からもセンスの良い顧客層がいるだろうということでこうした店が集まってきたとしてもおかしくはない。またフランスの雑誌ELLE DECOに取り上げられて海外でも一時話題になったことでますます出店が増えていったという。評判が評判を呼ぶという相乗効果だ。しかし出店している店は、必ずしもセレブ御用達の高級店ばかりというわけではなく、時代の移り変わりを反映して最近は若い世代向けやカジュアルで個性的でユニークな店が多い。北欧、イタリアン、ブリティッシュ、アメリカンから和風、アジアン... アンティークからレトロモダンな家具屋、オーダーメイド家具やインテリア装飾を手がける工房もあり、決して敷居の高いお店がズラリというわけではない。むしろ小洒落た小型の店舗も多く、ロンドンのポートベロやエンジェル、カムデンタウンのような骨董市的なテイストを漂わせる店も多くブラブラと見て回るだけでも楽しい。また通りにはこれまた素敵なカフェやレストランも並んでいるので歩き疲れたらふらりと寄るのもまた良い。

今回は、GEOGRAPHICAという英国アンティーク家具、骨董を扱う比較的大型のお店を訪ねた。三階建てのロフト風の建物で、地下には重厚なマホガニー家具、一階は洋骨董、二階がカフェ、三階にはオークやウォールナットの書斎家具が並ぶという英国好き、ブリトラ(British Trad)にはたまらない豪華な店だ。直営の工房を併設していて英国で買い付けた骨董家具の修復、補修を行っている。ちょうど「Travel Notes」という旅行をテーマとしたフェアーを開催中で、旅行書や19世のガイドブック、ポストカードなどのアンティーク小物、英国伝統のティーカップ、銀スプーンなどの食器、アクセサリーなどが比較的手頃なプライスタグで並んでいた。今回はいつもお世話になっている神保町の北沢書店さんがコラボ出店していて、素敵な洋古書を展示、販売。これまたクラシックな本棚に並んでいた。アンティークな英国家具と革装の洋古書のマッチングは最高で、まるで19世紀英国のカントリーハウスの書斎にいるかのような佇まいであった。この時期英国旅行など叶わぬ「時空トラベラー」にとって至福の時間を過ごすことができた。店内にはカフェレストランもあり、折からの連休で、しかも緊急事態宣言中の「遠出自粛期間中」でもあり、家族連れで賑わっていた。であるからして我々「前期高齢者」は遠慮して退散した。

それにしても東京は奥深い。まだまだ未知のゾーンがあちこちに潜んでいることを再認識した散策であった。


JR目黒駅西口を出て権之助坂を下る

目黒川にかかる目黒新橋

目黒川の桜はもう終わりで新緑が眼に染みる

立派な石柱を持つ橋だ

「元競馬場前」バス停


目黒インテリア通り

古民家活用の骨董店

タイ国大使館


GEOGRAPHICA

目黒通りのインテリア/家具ショップコミュニティーのポータルサイト。目黒インテリアショップスコミュニティー:MISC


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6)

2021年4月22日木曜日

復元なった常磐橋を愛でる 〜江戸城常盤橋御門跡は意外なトレンディースポット!?〜

 

東日本大震災の被害から復旧し完成した石造二重アーチの「常磐橋」
対岸に見えるのが江戸城常磐橋御門の遺構である枡形石垣
「常磐橋公園」として整備されている

東日本大震災で被災し、大きく変形してしまった常磐橋が復旧工事を終えて姿をあらわした。白い御影石の橋柱に黒い鉄製の欄干、二重アーチ式の石造橋でオリジナルに忠実に修理復元された。とても美しい橋である。おそらく東京の橋の中でも一二を争う「美橋」ではないか!江戸時代は日本橋川に架かる木造橋で江戸城の常盤橋御門正面につながっていた。明治になって帝都景観の近代化の波に乗って、多くの橋が石造橋に掛け替えられ、この常磐橋も見事な二重アーチ橋に架け替わった。現在の橋はこの時の石造橋が原型であり、関東大震災や東京大空襲を生き延びてきたものである。ちなみに同じ日本橋川にかかる日本橋もこの頃に現在の石造橋に架け替えられた。こちらも日本の土木工学の粋を集めた美しい橋であることは言を俟たない。今後、同時に復旧工事が行われている常盤橋公園の整備が完了すると、いよいよ5月上旬を目処に一般公開される予定だ。

この常磐橋は見ての通り石造アーチ橋で、長崎の眼鏡橋や筑前秋月城下町の石造アーチ橋にその構造がよく似ている。また幕末の鹿児島城下には甲突川に大きなアーチ式石橋が五橋架けられていたが、そのデザイン、構造は驚くほど常磐橋に似ている(下記写真参照)。九州にはこのほかにも肥前、肥後にも通潤橋のような多くの石橋が現存しており、これらはその堅牢さと美しさから、今なお日常生活を支えるインフラとして利用されている。鹿児島の甲突川五橋は台風、増水から守るためにまとめて「石橋記念公園」に移設、復元されている。明治の頃の常盤橋の架け替えに関する詳しい記録は残っていないが、おそらくその姿と構造からこうした九州の石造アーチ橋技術のレガシーを背負っていると考えられる。帝都東京の「近代化」事業の任にあった薩摩出身者の指導のもと、こうした石造架橋の技術を持った九州の石工が集められ、設計や築造に携わったのであろう。関東大震災ののちには、帝都復興事業の一環として震災復興建造物が推奨され、街の再区画も行われ、すぐ隣に歩道と車道を備えた新しい常盤橋(旧来の「常磐」橋と区別する意味で「常盤」の字が用いられている)が架けられた。このため一時は、損傷を受けた古い常磐橋とこれにつながる常盤橋御門の遺構を取り壊す計画が持ち上がった。これを救ったのが、今年の大河ドラマのヒーロー、渋沢栄一である。彼の財団が橋の修復と、枡形石垣を活用した常盤橋公園の整備に資金を提供した。で、彼の銅像が常盤橋公園に建てられているわけだ。ここはいまや知られざる東京のトレンディースポットなのである。

この界隈は日本の資本主義の中心である。常磐橋の正面には辰野金吾設計の日本銀行の重厚な建物が聳え、日本初の外為専門銀行であった横浜正金銀行跡(のちの東京銀行本店)、三井本館(現三井住友銀行)、三越本店などの明治以降の近代化建築遺産ともいうべき、壮麗な石造建築群が林立している。常盤橋公園に屹立する渋沢栄一像の目線の先には、彼が創設した日本初の国立銀行、第一国立銀行や東京証券取引所があった。その日本橋兜町は、まさに日本の資本主義発祥の地にして、バブル崩壊以降、衰えたりとはいえ世界の資本市場の一角を担う地域である。一時はロンドンのシティー、ニューヨークのウォール・ストリートと並ぶ三大株式市場と呼ばれたこともある。現在、常盤橋地区は「常盤橋プロジェクト」と称して、新たな高層ビルを中心とした街区の再開発計画が進んでいる。三菱地所のプロジェクトである。丸の内/大手町が三菱主導の街作りであるとすれば、日本橋は三井主導の街作りであるのだが、大手町からの三菱の「越境」開発が進行中というわけか。いや日本橋川がルビコンなのか?それはともかく、これからの日本はどのような姿になるのか、日本の資本主義はどこへ向かうのか。渋沢栄一は常磐橋の一角から何を見て何を思っているのか。

参考過去ログ:2019年4月10日「飛鳥山の旧渋沢栄一邸訪問



日本橋川にかかる常磐橋
頭上の首都高の高架橋も間も無く撤去される

1)常盤橋の現在と過去

現在の常磐橋と過去を比較してみよう

江戸時代末期の常磐橋と常盤橋御門

明治初期、木造橋が取り壊される前の様子

常盤橋御門も破却され、二重アーチ式石造橋にかわった「常磐橋」

江戸切り絵図の常盤橋

関東大震災復興事業で新たに築造された「常盤橋」橋柱
「常磐」に変わって「常盤」の字が刻まれている

現在の「常盤橋」
後方は市街地再開発事業「常盤橋プロジェクト」の現場


2)九州の石造アーチ橋

長崎の眼鏡橋(wikipediaより)
二重アーチ式はこの眼鏡橋のみで中島川にはこのほかにも単アーチ型の石造橋がある

筑前秋月城下の石橋(福岡観光案内HPより)
江戸時代中期に秋月黒田藩が長崎から工人を招いて築造した
花崗岩製で築造以来200年一度も流失したことがない

鹿児島甲突川五橋の一つ「西田橋」(鹿児島県立石橋記念公園HPより)
幕末に薩摩藩により肥後石工の中から名工を選び出して築造されたアーチ式石造橋群
現在は五橋とも保存のため、「石橋公園」に移築されている。


3)常磐橋界隈散歩

常磐橋公園の渋沢栄一像

兜町に建てられた三井ハウス、のちに第一国立銀行
新緑の日銀本店

辰野金吾設計の日本銀行本店
安全第一!

三井本館
江戸桜通りは桜が終わり新緑が美しい季節に



三越百貨店
日本銀行側からのショット。屋上の金字塔が見える


そして現在の日本橋

1964年以来、頭上を走る首都高速の高架橋も間も無く撤去される



(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6)古写真は東京都千代田区観光案内HPから借用



2021年4月14日水曜日

古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日本日記完全版」:The Complete Journal of Townsend Harris  〜伊豆下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ タウンゼント・ハリスの足跡をたどる旅〜




麻布善福寺にある
タウンゼント・ハリス、初代米国公使館跡碑
益田孝、藤原銀次郎が献納し朝倉文夫が彫刻した

裏面


今日は一日雨模様。コロナ感染もいよいよ第四波が来て不要不急の外出は憚られる。こんな日は以前にゲットした古書を読んで過ごそう。そして自宅「時空旅」に出よう。

今回の古書を巡る旅はタウンゼント・ハリス:Townsend Harrisの「タウンゼント・ハリス日記」:The Complete Journal of Townsend Harrisだ。本書は、日本滞在中に書き記した日記をニューヨークシティーカレッジ(ハリスが来日以前に創設した学校で現在のニューヨーク市立大学)の前学長マリオ・コセンザ:Dr. Mario E. Consenzaが採録、編集して1930年に出版したものだ。ハリスの死後、彼の姪からニューヨークシティーカレッジに寄贈されたハリス直筆の日記や関連書類が原典になっている。その後1959年に第二版(改訂版)、そして1968年に第三版が出されている。今回、1959年の第二版をも同時に入手した。この第二版には当時の駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世:Douglas McArther IIが序文を寄せていることが印象的である。その中で、マッカーサーは、日米関係の発展に貢献したコセンザと笠井重治に触れている(後述する)。この1930年初版の編者コセンザによる献辞には「To The Peace of The Pacific」とある。この年は重要な歴史的意味を持っており、この時期にハリスの日米友好親善に果たした功績に思いを致すことの意義を考えてみるべきであるというメッセージが込められている。1930年(昭和3年)はニューヨーク証券取引市場の大暴落(世界大恐慌の始まり)、日本は満州事変前夜、泥沼の日中戦争に突入するキナ臭い時代の幕開けの年である。振り返ると日本はペリー来航、ハリスの来日による開国から明治維新による近代化を果たし「一等国の道」を歩み始めた。しかし「富国強兵」路線にのって日清、日露の戦役に勝利してからは満州の荒野に戦火を拡大していった。そして軍国主義の道をまっしぐらに突き進むこととなる。こうした日本の有り様とその行く末を心ある人々は危惧していた。ハリスの日記をここで持ち出して、そのメッセージに仮託しこの時代の暗雲漂う空気に解き放った編者の日米友好親善の思いには並々ならぬものがあっただろう。なおこの本の日本語訳は「ハリス日本滞在日記(上)(中)(下)」坂田精一訳 岩波文庫があるが、絶版となっており古書でしか入手できない。

タウンゼント・ハリスは、日本史の教科書でも有名な人物なので改めて紹介するまでもないが、1854年、ペリーが結んだ日米和親条約に基づき、初代米国総領事として下田に赴任。続いて1858年の彼自身が全権代表として結んだ日米修好通商条約に基づき初代駐日公使となった人物。激動の幕末に日本にやってきて、徳川幕府との通商条約締結、通商のための開港を交渉したアメリカの全権代表である。大老井伊直弼の違勅(朝廷の勅許を得ない)による条約締結(1858年)、これに伴う攘夷運動の激化、そして安政の大獄(1858年)。桜田門外の変(1860年)で直弼暗殺と、ハリスは激動の幕末を生きたアメリカ側の歴史の証人である。ハリスは生まれも育ちもニューヨーク。生粋のニューヨーカーであり、教育者であり、上海で貿易に携わる民間人であった。職業外交官ではない。

彼の人物像や、下田における活動ぶり、通訳のヒュースケンや唐人お吉の物語、日本初の米国領事館が置かれた玉泉寺訪問記などについては以前書いたブログを参照願いたい。2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」今回は謂わばその続編である。

この本は彼が日本滞在中に書いた日記を編集したものである。日本の印象や出会った人々への思いだけではなく、アメリカ側から見た当時の日米交渉の実態を生々しく記述している点で貴重な歴史文書である。日本での記録は1856年8月21日の伊豆下田上陸、柿崎の玉泉寺での米国領事館開設から1858年6月9日で終わっている。したがって同年7月29日の江戸での日米修好通商条約交渉/締結、1859年の麻布善福寺での米国公使館開設、ヒュースケン暗殺(1861年)の前で途切れている。この歴史の画期ともいうべき江戸での出来事(4年滞在している)の模様の記録が、なぜか彼自身の言葉で書き綴られた資料として残っていないのは不思議でもあり、残念でもある。編者のコセンザ博士によると、以降の日記は遺族から寄贈された中には存在しないし、彼が晩年を過ごしたニューヨークの下宿からも発見されなかったという。ハリスが、この重要な時期の出来事を日記に記さなかったとは考えられず、おそらくハリスの遺品整理のどさくさで散逸してしまった可能性がある、としている。これらが発見されれば文字通り新たなページを追加することができると。しかし、既存日記だけでもその交渉過程と下田と江戸での日々の記述が、まるでその時代にタイムスリップしたような鮮やかさで蘇る。ハリスは健康上の理由で1862年には駐日公使を辞し帰国した。帰国申し出に際しては、ハリスとの個人的な信頼関係を築くことができた幕府要人側からも強い慰留があった。まさに欧米列強諸国に先駆けて日本に駐在し、幕府と交渉し、尊王攘夷運動で命を狙われながらも、米国のために全権代表としてミッションを完了させた。と同時に日本の新しい時代への幕を開けた人物と言ってよい。

ハリスは日本側の資料やその後の歴史小説などでは、列強の力を背景に開国を迫る強権的な異人の代表のように語られ、排外的な尊王攘夷運動の引き金となった人物として描かれることが多い。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも悪辣な異人「ハルリス」として尊王攘夷派の憎悪の対象であり、「異人を江戸に入れるな!」というスローガンの対象として登場する。また交渉に当たった幕府側役人は無知蒙昧、優柔不断で、「異人の言うなりの」弱腰官僚と描かれがちで、水戸や薩摩や長州の尊王攘夷派が、如何に開明的で先進的であったかを強調する歴史観を表明する舞台回しに使われることが多い。しかし当時の幕府は日本の外交窓口を独占しており、諸藩以上に海外事情に明るく、ある意味開明的で、先進的な考えを持った有能な幕府官僚を有していた。上述のような一方的なステロタイプ「幕府像」「異人像」は、のちに明治維新を、さらには薩長藩閥政府を正当化する視点によるものであることは、後世の歴史検証で明らかになっている。歴史は「善と悪」というような二項対立を軸にした勧善懲悪小説のような見方では正しく理解できないものである。ハリスという人物の評価も見直されてしかるべきであろう。例えば、下田における「唐人お吉」の物語など、ハリスを好色な異人と描くことで、面白おかしい物語にして小説本の売り上げを企図する出版社の思惑や、昭和初期の戦争に向かう時代に入ってからは、反米感情を煽る世相の反映であろうと考えられる。彼の日記にはお吉のことは触れられていない。彼はその堂々たる体躯や強靭な意思の持ち主であるという評価に反して、日本に来てからは体調を壊し、病弱な面を見せていた。このため看護できる医者か看護師を幕府に要請していた(ヒュースケン日記に記述がある)。それを下田奉行所の役人は下衆な忖度で何人かの女性を領事館に派遣し、その一人に吉がいたとされる。が、彼女は3日で返されている(下田奉行所側の記録)。また彼の出身地であるニューヨークにおいては教育者、教育行政に携わった人物としての名声(前回のブログで紹介したように現在のニューヨーク市立大学の創設者である)や、聖公会に属する厳格なクリスチャンとして生涯独身を貫き、高潔な精神の涵養を生涯追及したことなど、ほとんど日本の歴史書では紹介されない。ハリスが時にはかなり強引な手法で交渉を進めてことは事実であろう。幕府にとって手強い交渉相手であったことは想像に難くない。それはアメリカ全権代表として外交交渉では当然のことで非難すべきことではない。丁々発止やり取りするのが国を背負った外交交渉である。幕府もしたたかな外交交渉でハリスを困惑させていた様子が彼の日記から読み取ることができる。むしろ当時の日本における過激な攘夷思想こそ、倒幕のスローガンとしては機能しても、新しい日本の再生スローガンとしては機能していない。その歴史的な意味を見直す必要があると考える。そろそろ攘夷派中心の幕末歴史観を改める必要がある。もっとも一種の通過儀礼ではあるが、隣の清国の過激な排外運動/攘夷運動の結果を日本人はすぐに学習し、欧米流近代化へと舵を切っていったことは正しい判断と選択であった。ただどこかで道を間違えて戦争まっしぐらの道を選択してしまうが。先述のようにそのような時期にこの本が出されたことの意義は大きいだろう。

また、彼の日記には条約締結交渉の進捗状況に関する幕府側への苛立ちや不信感を書き記してはいるものの、交渉相手であった幕府側の開国派の官僚、外交官である堀田正睦(閣老)、井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震(江戸の外交官僚)、通訳官であった森山多吉郎などの人物評も興味深い。初期においては警戒感(嫌悪感と疑惑)をもって接していた様子が随所に読み取れるが、次第にその人物像、能力を評価し、しまいには相互に好感を持って接した様子がわかる。特にハリスが直接的に頻繁に条約締結交渉をした岩瀬忠震についてはただならぬ手強い外交官であると高く評価している(岩瀬忠震は小栗忠順、水野忠徳とともに「幕末三俊」と称された)。ハリスが日本に対してレスペクトをもって接したことの第一の理由には、こうした理非をわきまえた優秀な人物の存在があった。条約交渉では、いわゆる治外法権(問題になるだろうと身構えていていたが、幕府側が問題なしとしてあっさり認めたのでハリス自身がそれで良いのかと疑問視した様子が記載されている)や関税自主権(こちらも幕府側は税率そのものに固執して自主権の問題には触れなかった)など、後世に大きな課題を残したものもあるが、この当時の日本(幕府)が置かれていた立ち位置、幕府の力量としては(清国などと比べても)最小限の譲歩にとどめ、続く安政五カ国条約の雛形となり、列強の植民地化の芽を摘み取る結果となった。これは(後述する通り)ハリスの貢献が大きいのと、幕府側のギリギリの交渉が最後の砦を守った形になった。こうしたことから、岩瀬忠震は後にハリスに謝辞を述べてる。後世に漫然と伝えられているように、彼らは外交を知らぬ蒙昧で頑迷固陋な幕府官僚ではなく、訳のわからぬ幕府内のロジックだけで動くようなダラ官でもなく、まして問題を前にして思考停止してしまうような凡庸な人物でもない。高い目線と広い視野を持ったインテリジェンスあふれる手強い相手であった。このようなハリスと岩瀬の交渉と決着が、イギリスに先んじてその後の日本と列強諸国との外交関係のフレームワークを決める鍵となったと言っても過言ではない。激しい交渉を繰り広げた両国当事者の間に個人的な信頼関係が生まれたことは彼の日記の記述からも伺い知れる。

またハリスは条約勅許が未だになされない状況を見て、統治権力のトップである江戸の将軍:Tycoonの他に、統治権威のトップである天皇:Mikadoの存在についても十分に理解し、その二重統治構造が国内の不安定化の原因になりかねないことも見通していた。したがって開港の遅れについても、その事情が幕府側から説明され、ハリスもその国内事情を理解し、性急にことを進め、交渉相手である幕府の立場を危うくするのは得策ではないとの判断を示している。一方で過激な尊王攘夷運動の高まりを見て、今は開港を急ぐ時期ではないとも判断し、その旨本国に報告している。この辺りは清国相手に武力を用いた強引な交渉(恫喝)で、アヘン戦争後の南京条約、アロー号事件後の北京条約を結ばせ、次々と開港、居留地を認めさせた(事実上植民地化した)イギリスの手法を、西欧諸国の東洋進出の歴史の汚点であり後世に禍根を残すものと考えた。このような清国やインドにおけるイギリスの振る舞いや、それに追従するフランス、ロシアの強引な行動をそのまま日本に持ち込めば、日本(幕府)はひとたまりもないと危惧した。また一方で、この「植民地化」の動きは、新興国であったアメリカにとっての太平洋航路開設と、東洋貿易(自由貿易)参入への中継地としての日本の重要性に鑑み、憂慮すべき事態となることとの判断であった。このハリスの情勢認識とアメリカの権益を守る全権代表としての義務感が、先述のような(不平等条約ではあるものの)日米修好通商条約を生み出した。そしてそれが雛形となった安政五カ国条約が生まれた。このことが結果的に日本を「植民地化」「アヘン貿易の毒牙」から守ることになったと評価することもできる。日記にはこの辺りの情勢分析と判断、なかなか連絡が取れない本国の説得(日本に着任してから一年以上ワシントンからの連絡がないという苛立ちを隠せない様子が記述されている)など、その苦悩と疑心暗鬼、それに打ち勝とうとする使命感などの心のうちが記述されている。その後、大老井伊直弼の就任と彼による、一橋派の堀田正睦や岩瀬忠震などの開国派官僚/外交官の解任(井伊自身は必ずしも積極的開国派ではなかったと言われる)。そしてその井伊直弼の暗殺と、幕府内が混乱し外交政策に空白が生じていく。これに幕府を重んじ、ある意味での対英仏蘭露交渉に当たっての外交顧問的な役割を果たしてきたハリスの帰国(1862年)が続き、やがては幕府の国内外の統治能力に大きな疑問符がつき始め弱体化が加速していったと言ってよい。そして最後の将軍慶喜により徳川幕府による統治体制の幕引き(1867年の大政奉還)の時代に入ってゆく。以降、対日外交が弱体化したアメリカに代わって外交主導権を握ったイギリスは、薩摩との繋がりを深め、討幕運動支援へと向かい、フランスは幕府とのつながりを深めていったことは歴史で習ったとおりだ。そして初めて日本を開国へと向かわせたペリー以来、ハリスの活躍で対日外交をリードしてきたアメリカは、国内の内戦(1861〜65年の南北戦争)の勃発もあり、その影響力が相対的に後退し、倒幕、明治新政府樹立に向けてイギリスの影響力が増してゆくことになる。先述のようにハリスの日記は1858年で途切れており、また1862年には離任し帰国しているので徳川幕府の末路について、彼の日記から読み取ることはもとよりできない。もし彼の日記の散逸した部分が発見されるとこれは興味深い資料となろう。ニューヨークに戻ったハリスはこうしたその後の日本の歴史の流れをどのように観察していたのだろうか。ハリスが去った後、外国側からの視点で幕末史、明治維新史を紐解く資料は、1861年に江戸に着任した駐日イギリス公使ラザフォード・オルコックの著した「大君の都」:The Capital of The Tycoonや、アーネスト・サトウ:Ernest Satowの一連の著作に引き継がれることになる。

ハリスの日記には開港地に関する交渉過程が詳細に記述されていて興味深い。彼は当初11カ所を開港するように要求していたが、岩瀬忠震との交渉で4カ所に絞られている。幕府側のギリギリの交渉に折れた形だ。既に開港されていた下田の他、1859年に開港された長崎、横浜(神奈川)、函館と開港が遅れた神戸(兵庫)の他に、江戸(品川)、大坂(摂津、堺)、新潟の名前が候補地に上がっている。ハリスは殷賑な商業都市である大坂(摂津、堺)にご執心であった様子だが、京都に近いことからそれが難しいことも予知していた、これが兵庫開港の遅れの原因であったことも理解していた。下田は横浜開港と共に閉港されることになった。ちなみに、なぜか古代より対外交易の重要港であった博多は一度も検討の候補に上がっていない点が興味深い。長崎に近いこととや、鎖国200年の間にすっかりその歴史的役割を終え今日的な価値が薄れてしまった様子が垣間見える。

また余談ではあるが、1858年からの江戸での滞在中の記録には毎日のように「地震」が記録されている。ハリスは、この経験したことのない天変地異にかなり動揺していた様子が手にとるようにわかる。のちになると揺れが小さいものは慣れて気にならなくなったようだが。この時期は1854年のペリー来航以前の嘉永年間から安政年間にかけて日本各地で大きな地震が頻発した。もちろん各地で大きな被害が出ている。1854年には伊豆戸田に寄港中のロシア艦ディアナ号が津波で遭難し、大勢の乗組員が死亡している(下田玉泉寺にその遭難下士官、水兵の墓所がある)。また1855年の江戸安政地震では江戸城が大きな被害を受け、水戸藩の藤田東湖も死亡している。ハリス江戸滞在中もこうした一連の安政地震の余波は続いていたことを表す貴重な記録である。

ところで先述のように1959年の第二版では、当時のマッカーサー駐日米国大使(あのマッカーサー元帥の甥)が序文を寄せているが、そこにこの本の編者であるDr. Cosenza:コセンザの長年の友人であるJiuji Kasaiなる人物の名が引用されている。この人物に関しては寡聞にして知識がなかったが、笠井重治(1886−1985)は戦前から日米友好に尽力してきた山梨県選出の衆議院議員であった。戦前に旧制山梨中学からアメリカのシカゴ大学に進学し、ハーバード大学の行政大学院(今で言うケネディースクール)卒業後、日米開戦前の排日運動盛んな米国で日米友好親善の重要性についての講演を続け、一方で、反米感情高まる日本でも講演を行い、太平洋の平和:The Peace of The Pacificを熱心に説いて回った人物である。米国に多くの友人を持ち、この本の編者Dr. Cosenza:コセンザもその一人であった。そしてこの「ハリス日記」の出版にも協力した。戦前の国会議員選挙に何度も出馬したが、大政翼賛会に属さなかったため何度も落選して苦労している。戦後、衆議院議員に当選した。GHQのマッカーサー元帥にも幾度も嘆願書や提案書を出し、日本統治のアドバイスや善政を引くよう要望し続けた。その時の縁で、マッカーサー駐日米国大使にその日米友好への努力が高く評価され序文で言及されている。日米文化振興協会の会長を務めた。故郷山梨県には彼の記念碑があるそうだ。ちなみに今回手に入れた1930年の初版本は、なんとこの笠井重治の蔵書であった(蔵書印と蔵書ナンバーがある)。彼は多くの日米関係史に関する蔵書を有していたようだが、そのいくつかが手放されて現在は古書店に並んでいる。中でも因縁深いこの一冊、彼の思いの詰まった一冊を不肖私が手に入れたというわけだ。まさにThe Peace of The Pacificを願う笠井とコセンザ。その記念すべき書籍。何故古書市場に出回ることになったのかは不明だが、なんという出会いであることか。これだから古書を巡る旅はやめられない。

2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」


上が1968年の第三版
下が1930年の初版

第三版の表紙デザイン




初版本の見開き表紙とハリス肖像


編者コセンザの献辞
"TO THE PEACE OF THE PACIFIC"
時代の転換点である1930年という年に向けたメッセージである


第3版に寄せられたマッカーサー駐日大使の序文
Jiuji KasaiとDr. Consenzaの名前が引用されている


初版本のJiuji Kasai:笠井重治の蔵書印



柿崎(玉泉寺のある)から見た下田の街

1856年に下田の玉泉寺に開設されたアメリカ領事館
日本で初めて掲揚された星条旗

現在の下田玉泉寺
米国総領事館跡と米艦隊乗員の墓地があるほか、ロシア艦ディアナ号遭難乗員の墓がある


下田玉泉寺の領事館跡記念碑
渋沢栄一の寄付になるもの

現在の玉泉寺領事館跡記念碑

アメリカ公使館が置かれた善福寺の写真
有名な大銀杏の説明もある




日本初の米国公使館が置かれた麻布山善福寺

827年、弘法大師の開山になる真言宗の寺であったが、のちに親鸞聖人により浄土真宗に改宗。現在は浄土真宗本願寺派の寺。東京では浅草寺、深大寺と並ぶ古刹である。境内の逆さイチョウが有名。昭和20年の東京大空襲でイチョウも大きな被害を受けたが復活。背後に建っている異形の高層マンションはバブル時代の元麻布ヒルズ。善福寺境内の一部をを森ビルが買取り建設された。「物欲煩悩留まるとこを知らず」の時代の遺物だ。

現在の麻布山善福寺参道
なんとも異様な光景だが...

善福寺唐門

今日は幼稚園の入園式

善福寺本堂

銀杏の樹下に佇むハリス記念碑

善福寺の逆さイチョウ
戦災で大きな被害を受けたが復活した
ハリスがいた時代から有名であった

福沢諭吉夫妻の墓


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60-3.5-5.6)