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2025年8月15日金曜日

終戦から80年の夏 〜米国グルー駐日大使日記「日本滞在10年」:"Ten Years in Japan" を読みかえしてみた〜

 

80年目の終戦記念日 戦没者の御霊よ安らかなれ


8月15日「終戦の日」がやってきた。今年も猛暑の夏だ。今年は80年。節目の終戦記念日。心から先の大戦で亡くなった数多くの戦没者の御霊に哀悼を表したい。

今年の終戦記念日にはジョセフ・グルーの日記、「日本滞在10年」:Ten Years in Japan を読み返してみた。これは終戦の前年の1944年、すなわちまだ日本との戦争が継続していた中、ニューヨークとロンドンで出版されベストセラーになったものである。80回目の終戦記念日。そしてアメリカへの敬意が薄れゆくこの時代、そもそもなぜ80年前に日米開戦に至ったのか。今回は当時のアメリカ駐日大使ジェセフ・グルーの立場から振り返ってみたい。

ジョセフ・グルーは1931年の満州事変勃発の翌年にアメリカの駐日大使として東京に赴任。1941年の日米開戦とともに日本側の捕虜として東京で抑留され、翌年捕虜外交官交換でアメリカに帰国した。終戦交渉の時にはワシントンの国務次官として原爆投下などの無差別殺戮に反対し、ポツダム宣言の無条件降伏に対し天皇制を維持した民主国家としての日本の存続を主張したことで知られる。彼は反共主義者でありソ連の参戦を恐れた。戦後は日本占領政策に大きな影響を与えた人物である。吉田茂はグルーを日本の恩人として高く評価し称えている(吉田茂「回想録」)。グルーはアメリカには珍しいキャリアの外交官である。国際連盟大使、ポルトガル大使などを歴任後、知日派の大使として東京に赴任した。日本がまさに泥沼の日中戦争に突入し、国内では2.26事件などの軍国主義が徘徊。統帥権を盾に議会制民主主義が崩壊に瀕していた。日本は戦線を資源を求めて南方、太平洋に拡大し、日独伊三国同盟に走り、いよいよ英米との開戦必至という情勢であった。そうしたまさに日本の緊迫した実情を東京から発信し、日米開戦の回避に奔走した人物である。

彼の果たした役割、記述された日記の内容にはいろいろな評価がある。多くの分析評論、研究成果も発表されている。日記にはもちろん外交機密に属するテーマや、まだ交戦国である日本の関係者に迷惑がかからないような配慮がなされているが、生々しいやり取りや、緊迫感、新しい発見もある。しかし今回読み返してみて私が感じた一番のポイントは、逐一の出来事の歴史的意味はともかく、彼のような知日派で日本の政財界との太い人脈を有した人物、しかも徹底した非戦論者であった大使にも日米開戦を阻止できなかったということ。そしてグルーが対峙した日本側の政治指導者も決して日米開戦論者ではなく、(彼によれば)大方がそんな無謀な選択肢はないと考えていた。軍部の一部の跳ね返りの「過激派」を危惧して開戦に向かわないよう奔走した人々であったということ。東條を首相にしたのも陸軍内部を抑えられるのは彼しかいないと天皇側近の元老西園寺、城戸内大臣が考えたからだ。アメリカ側も国務省はじめルーズベルトもドイツとの戦争に加えて太平洋で先端を開く余裕はなかったし、日本が米国に対して宣戦布告することはないとみていた。そうして両国ともに開戦はありえない、あるいは開戦回避に向かっていたにもかかわらず、なぜ日米は戦争に踏み切ったのか。これは様々な歴史的検証がなされているが、いまだに明快な分析、説明を聞いたことがない。様々な要因が絡み戦争の総括と検証はまだ終わっていない。

このグルーの日記にもそれを検証し説明できる新事実を発見することはできないが、一つだけ言えることは、彼にとって天皇側近の元老を含めて日本側の開戦回避派の人物の影響力が思っていたほど大きくなかったことであろう。グルーは天皇はじめ日本の指導者層と緊密な関係を築き、非常に友好的な米国大使としての在任期間を過ごした。天皇が戦争に消極的であったことも考えると開戦の意思決定への流れはある意味で誤算だったかもしれない。グルーの付き合い範囲がそうした日本の指導者グループの非戦派、ないしは親英米派に限られていたのではないかということである。国際連盟から脱退したり、追い詰められてドイツとの同盟を選んだ指導層の動きにもやや鈍感だった。日中戦争を牽引した陸軍の参謀や、統帥権をふりかざす参謀本部のエリート軍人、革新官僚と呼ばれた軍国主義官僚とのパイプが細かった。あるいは過小評価していた。日米の圧倒的な国力差もあり、そのような開戦主導派は少数である(とグルーは自信を持っていた)にもかかわらず気がつくと真珠湾に突っ込んでいた、という感覚だろう。

グルーの情勢分析が甘かったといえばそれまでだが、プロの外交官ですらこのようなことが起きる。いや、優れた外交も狂信の前には無力だ。共有すべき事実を認識することを拒絶する人々には通じない。これは今のSNSの世界で自分と同じ世界観、価値観の人物をインフルエンサーとし、「いいね」ボタンとフォローとシェアー拡散しているようなものだ。同じ価値観と目線の人物とばかり付き合い、フォローし共感しあっていると、それが主流の世相だと思ってしまうのにどこか似ている。自分が身を置いているコミュニティー(それは権力の中枢であると思っている)では戦争はあり得ない。しかし実際には共感できない狂信的なコミュニティーから戦争が始まる。日露戦争でおぼえた「一撃講和」がアメリカ、イギリスとの戦争でも有効だ、と根拠なく信じる楽観主義者たちである。資源を求めての南部仏印進出が、アメリカの対日禁油措置を招き、それが世論の反米感情の悪化を招いた。日本の指導部の中では、圧倒的な日米の国力差は理解していたが、この機に短期決戦「一撃」を与えて「講和」に持ち込む。これで勝てる、という流れが一気に主流となっていった。グルーは日本の非開戦派を信じてはいたが、一方でワシントンの、日本は日中戦争の泥沼化で疲弊していて、アメリカとの戦争など非現実的だとの観測に対して、日本は西欧諸国とは異なる思考様式を持つ国である。自国の名誉のためには決死の戦争をも辞さない国であるとして警鐘を鳴らし、開戦の可能性を否定していない。一方でハル国務長官の対日強行路線に対するグルーの和平策、開戦回避策、具体的には近衛/ルーズベルト会談の工作は、欧州におけるチェンバレンの対独融和策のように捉えられ不本意ながら実現しなかった。アメリカも揺れ動いていた。日米の狭間でのグルーの葛藤を感じ取ることができる。戦後の極東裁判ではグルーは開戦阻止派の指導者を不起訴で救おうとしたが、従容として死刑執行に臨んだ広田弘毅や自死した近衛文麿などの友を失う。外交官グルーの悲劇、そして日本の親英米派、非戦派の悲劇はそこにありそうだ。

戦争なんて、熟考と練りに練った戦略の末実行されるものではない。一部の声の大きな人間(ときにはエスタブリッシュメントから失笑を買うような人物)の勢いやプロパガンダ、フェイクニュース。そしてそれを煽るマスコミとそれに煽られる大衆世論によって始まる。熱狂し、気がつくと「大変なこと」になってしまい収拾がつかなくなり、なにがなんでも強硬に戦争を継続する。そこに組織のメンツや独自の論理が加わる。止め時のシナリオのない戦争は滅びるまでやる。「一億玉砕」。「わかっちゃいるけどやめられない」。事実、天皇の6月の「終戦の聖断」から、8月15日のポツダム宣言受諾、無条件降伏まで、50日以上かかっている。その間に本土都市への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦があり、この戦争で亡くなった民間人の実に50%はこの間になくなっている。後から振り返るととても理性的、あるいは合理的な意思決定とは言えない。しかしその時は気が付かない。それでも「本土決戦」を叫ぶ一部の軍人。これが狂信である。これは現代の戦争を見ていても同じだ。簡単に始めるが簡単には終わらない。

そして今のアメリカにあの時のグルーのような知日派の人物の姿が見えないことにも愕然とする。グルーとて聖人君子ではないし、あとから日本贔屓の偉人に仕立てるつもりもない。当然ながらアメリカの外交官、利益代表として辣腕を振る舞ったのだが、そこには相手国へのレスペクトと、自国に意見する見識と胆力、世界を歴史を俯瞰することのできる知性があった。そのような人物は今のアメリカにいるのだろうか?いやいるはずだがなりをひそめているのだろう。少なくとも今の政権中枢にポジションを得ているようには思えない。久しぶりに取り出してみたグルー日記「Ten Years in Japan」が、戦争は思いがけず起きることを思い出させてくれた。そして、開戦前夜の日本で起きたリベラル勢力とそれに反発する極右勢力の対立構造が、現代のアメリカで起きていること。そしてその波は再び日本にも。戦後80年。「アメリカの時代」の終わりを予感させられる日々である。そんな今年の終戦記念日。



グルーの肖像と表紙

政界、軍部、財界と多様な人脈を形成していたグルー

秩父宮、広田弘毅、重光葵、樺山伯爵、近衛文麿などの高官との写真
全員が親英米派高官

麻布善福寺のアメリカ公使館跡にタウンゼント・ハリス記念碑を建立
若き日にアメリカ公使館に勤務していた益田鈍翁も