幕末維新の時代に日本に赴任してきたイギリス外交官にはアーネスト・サトウの他にA.B. ミットフォードがいる。日本ではサトウは有名だが、ミットフォードはあまり知られていない。ミットフォードはイギリス公使館二等書記官、サトウは日本語通訳生。幕末維新の時に横浜と江戸の公使館に勤務していた同僚である。年齢は彼がサトウより6歳上だが、着任はサトウの方が4年早い。このミットフォードは上流階級名門の出身で、イートン、オックスフォード出のエリート。後に男爵リーズデール卿となる。一方のサトウはのちにナイトの称号を得たが、ラトビアからの移民の子。ロンドン大学在学中に外務省の日本語通訳生試験に合格して日本に赴任した。階級社会であるイギリス的な感覚で言えば、身分と出自の違いがある訳だが、この二人は激務の日本勤務を通じて生涯の友人となる。さらに言えば。この二人は、庶民階級の出で学歴もない、現場叩き上げの辣腕公使ハリー・パークスの下で働いた。幕末明治の日本の若者と同じで、時代の歯車が大きくまわる時期には旧来の身分や出自などの違いを超えて活躍する若者がここにもいた。また同時期にはアイルランド出身のウィリアム・ウィリスが公使館付医官として、サトウ、ミットフォードと横浜の公使館の宿舎で共に過ごしている。彼は戊辰戦争の負傷者の治療に当たったほか、山内容堂の診察をしたことでも知られ、後に鹿児島の医学校創設にも関わった。ウィリスに関する参考資料としては「幕末維新を駈け抜けた英国人医師 甦るウィリアム・ウィリス文書」大山瑞代訳 創泉堂出版 2003年がある。
サトウの日本滞在記録 「A Diplomat in Japan」:邦訳版「一外交官の見た明治維新」は、以前のブログ2021年6月12日「古書を巡る旅(11)で紹介したので、今回はミットフォードの「回想録」:「Memories」を紹介したい。この回想録は、ミットフォードが、その晩年に男爵リーズデール卿として自らの生涯を振り返ったものである。したがって、日本についての回想だけが収められているわけではない。邦訳の「英国外交官の見た幕末維新」はここから日本部分を抜き出して翻訳したもので、サトウの「外交官の見た明治維新」と並ぶ幕末維新の時代の記録となっている。サトウの著作は彼の日記をベースとした詳細な記録に基づいており歴史研究の一次史料としての価値が高いと評されている。一方、ミットフォードの回想録における記述はそれに比べると縮約版的であるが、流麗な文章で叙述されており歴史の物語を読むようである。またサトウの日記を借りて当時を振り返ったとも書いており、時間の経過とともに過去の出来事の記憶が薄れている部分があったであろうと推察する。とは言え、日本の幕末維新という激動期に外交官として横浜、江戸に駐在し、数々の歴史の現場に立ち会ったミットフォードは、サトウと共に幕末明治と日英交流の歴史の重要な証人であることは言うまでもない。この二人の著作を読み合わせることで補完しながらより多元的に幕末維新を振り返ることができるであろう。サトウは1862年(文久2年)から1884年(明治17年)までの、賜暇休暇を入れて22年日本に滞在したが、一方のミットフォードは1866年(慶応2年)から1870年(明治3年)までの4年の滞在ということで、サトウよりははるかに短い滞在であった。またサトウの邦訳版「外国人の見た明治維新」は彼の賜暇休暇までの7年の記録である。一方のミットフォードの邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」は彼の4年の滞在記録で、共に「王政復古の大号令」明治維新政府の樹立を見届けた1870年前後までの記録となっている。その後、ミットフォードは帰国し、外務省を辞している。一方のサトウは、タイ公使を務めるなどの外交官としてのキャリアを積み、駐日全権公使まで務め知日派ジャパノロジスト「サトウ」の名を高めることになる。
この二つの著作でも、お互いの存在に言及しながら書いている。先述のように、ミットフォードは、回想録を書くに当たって、サトウの日記を借りて参考にしながら書いたことを述べているし、サトウの日本に関する深い理解と洞察力、人脈、そして彼がパークスの政策に与えた影響力を高く評価している。一方のサトウは、ミットフォードの外交官としての資質、能力と語学能力の高さに驚嘆している。確かに、回想録に引用されている幕府や新政府の布告などの公式文書を正確に英訳している。ミットフォードの方がサトウよりはランクが上の書記官で、形式的には上司であったため、ランクが重んじられる公式会見や、将軍や天皇との拝謁に全権公使のパークスと同席する機会はミットフォードの方が多かったようだ。例えば明治天皇の謁見はパークスとミットフォードの二人に限られた。しかし、一方で日常的な日本側の重要人物や草莽の志士との接触はサトウの方が多く、いわゆる「サトウ詣」が行われていた。こうした立場による情報ソースの違いや、相手方の建前/本音の違いが浮き彫りになるなど興味深い。また細部にこだわる「スペシャリスト、サトウ」と、全体の流れを掴む「ジェネラリスト、ミットフォード」というキャラクターの違いも見え隠れするので読み合わせてみると面白い。
先述のように、日本では圧倒的にサトウの方が知名度が高いが、イギリスではむしろミットフォード、のちのリーズデール卿のほうがよく知られている。しかしそれは若き日の日本での外交官としての業績や、日本の歴史を変えた「幕末維新」における活躍のためではなく、彼の英国社交界での華々しい名声のためである。国王エドワード7世の友人で、人品骨柄卑しからぬイギリス紳士の代表のような人物として評価を受けていたことによる。そしてもう一つは彼の後継者である次男ミットフォード卿の六人の姉妹のためである。この姉妹は「ミットフォード姉妹」として戦前のイギリスでは知らぬ人はないと言われる有名人であったようだ。すなわち、ヒトラーの信奉者、ファシスト、共産主義者、作家、上流階級夫人などとして常に話題を振り撒き、数々のスキャンダルで新聞紙上を賑わす人物としてである。特に三女は不倫の末にヒトラー、ゲッペルス立会の元にイギリスナチ党党首と結婚した。また四女はヒトラーの親しい友人としてドイツに移住し、イギリスの対独宣戦布告で自殺を図るなど政治問題にもなった。イギリスには貴族でナチ信奉者が少なからずいたことは、カズオ・イシグロの小説「日の名残」でも取り上げられている通りであるが、こうした形でミットフォードの名が知られていたとは。ミットフォード家の資料はグロースターシャーの資料館に収蔵されているが、残念ながら彼の日本での外交官としての活動の記録はあまり残っていないようだ。
(1)ミットフォード/リーズデール卿の略歴
Algernon Bertram Mitford, 後にLord Redesdale (1837~1916)
1837年 ロンドン生まれ
ミットフォード家はフランク王国シャルルマーニュ大帝(742〜814)に繋がる名門の家柄で、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードは曽祖父にあたる。3歳の時、家族で大陸に移り、フランクフルト、パリ、トルービルに住んだ。
1854 年 イートン校卒業
1858 年 オックスフォード・クライストチャーチ卒業 外務省入省
ロンドンの社交界ではプリンスオブウェールズの交際仲間の一人にもなり、花形的存在
1863 年 ロシア ザンクトペテルスブルグ英国公使館二等書記官
1864 年 帰国 オリエントの旅へ
1865年 中国 北京英国公使館へ 中国語をトーマス・ウェイド代理公使(のちのケンブリッジ大学中国語教授)につき猛勉強
1866 年 日本へ転勤 横浜/江戸英国公使館 ハリー・パークス、アーネスト・サトウと共に幕末維新の激動期に駐在
1870年 賜暇休暇で帰国
1872 年 外務省を退職 ダマスカス、イタリア、アメリカ・ソルトレイクシティー、ロッキー山脈、カリフォルニアを経て、日本へ2度目の旅行
1874 年 ディズレイリ内閣の建設大臣
1886 年 従兄弟のリーズデール伯爵の名前、紋章、遺産を継ぎフリーマン・ミットフォードと名乗る。ロンドンを引き払い、領地のコッツウォルド バッツフォードに転居。日本風のバンブーガーデン開園 保守党の下院議員となる。
1902年 従兄弟の爵位を継承し男爵リーズデール卿に 上院議員となる。ビクトリア女王崩御に伴い王位継承した国王エドワード7世の良き友人であった(皇太子プリンスオブウェールズ時代からの友人)
1906年 明治天皇へのガーター勲章奉呈ミッションでエドワード国王の名代としてコンノート卿が訪日。その主席随行員として40年ぶりに日本へ。この時に明治天皇から菊花大綬章をもらっている。
1916年 バッツフォードで死去
訃報記事には、「若き日にロシア、中国、日本での外交官として活躍し、上流階級、社交界で華やかな人生を送り、時代を代表する英国紳士であった」と紹介されている。
(2)書籍紹介
1)「Memories」2 volumes 4th Edition 1915
Lord Redesdale:リーズデール卿著
邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」 長岡祥三訳 講談社学術文庫
ミットフォード、のちのリーズデール卿の「回想録」上下2巻は、816ページの大著で、出生から1914年の第一次世界大戦までの回想録である。このうち第18章から26章までが日本に関する回想で、邦訳版はこの部分を抜粋、翻訳したもの。1866年(慶応2年)から1869年(明治2年)までの幕末・維新の激動の日本でのイギリス公使館勤務時代を振り返っている。若き日にパークス、サトウと共に活躍した思い出、天皇や将軍他のさまざまな人物との出会いが描かれており、幕末維新の日本の動向や人物像がイギリス外交官の視点で生き生きと描かれている。先述のように、サトウの著作と並ぶ、幕末維新史、日英外交史の一級の一次史料と言える。とりわけ、1867年(慶応3年)の慶喜との大坂城での会見(大政奉還についての慶喜からの説明)、1868年(明治元年)の明治天皇に謁見のことが詳細に記述されている。また明治天皇への謁見のため、京都御所を向かう英国公使パークスをはじめとする英国デレゲーションが、その途上で攘夷派の暴漢2名に襲われた事件など、当事者にしか語れない緊迫した模様が伝わってくる。サトウの日記に基づく記述にもことの顛末が詳細に語られているが、明治天皇との謁見にはミットフォードだけがパークスに同伴することを許されたので、紫宸殿の中のことはサトウの記録にはない。ミットフォードもサトウが謁見に同席出来なかったことを残念だと書いている。これはイギリスでの国王への謁見の経験の有無が問われたようで、ミットフォードにはそれがあったということのようだ。
彼はこの他にもいくつかの重要な著作を残している。中でもミットフォードの名前で著した「Tales of Old Japan, London, Macmillan, 1871」:「日本昔ばなし」は、日本に伝わる「忠臣蔵」などの昔の物語を紹介した代表的な著作としてイギリスでは重版されており、邦訳もされている。外交官としてだけではなく日本の文化に対する造詣の深さを示すものである。またもう一つの興味深い著作は、講演集「A Tragedy of Stones and Other Papers, London, John Lane, 1912」である(後に書籍を紹介する)。彼が公使館に勤務した若き日々に見聞した日本(幕末維新の激動期の)と、その後、1906年に明治天皇へのガーター勲章奉呈使節の主席随行員として40年ぶりに訪日した時に見た日本(あの日清/日露戦争に勝利した後の)とのギャップ。攘夷サムライのテロに怯える日々から、再び明治天皇に謁見することになった今という、すっかり変わってしまった日本に対する驚きと印象を語った「A Tale of Old and New Japan」と題した講演記録が採録されていている。特に興味深いエピソードは、英国王名代のコンノート卿使節団が横浜から新橋に列車で到着した時に、明治天皇が駅まで出迎えたことだと振り返っている。Forbiden Palace:禁裏から一歩も出ず、人々に姿を見せない神聖な存在であったMikado:天皇が、「あろうことか」外国人の一行を出迎えるために新橋駅頭に姿を表している。幕末攘夷の嵐の中、白刃を掻い潜って命を拾ったあの頃、維新後の明治天皇謁見の際にすら攘夷の浪士に襲われたあの頃には考えもつかなかったことだと振り返っている。彼の晩年の日本観は、この「脅威的な変貌」の衝撃によって規定されている。これはサトウも同様であり、この時期を日本で過ごしたチェンバレン、ラフカディオ・ハーン、フルベッキ、マードックなどの外国人に共通する日本観であったように思うが、彼のように40年ぶりの再訪であればその感慨はひとしおであったろう。その「変貌」の良し悪しの評価は、個々人で異なっているが。このガーター勲章ミッションの日本訪問については、別に「The Garter Mission to Japan, London, Micmillan, 1906」を著している。このため回想録、講演録では、日本再訪時の旅程や詳細には触れられておらず、機会があればこの「ガーターミッション」についても読んでみたいものだ。
「Memories Vol I,II 」4th edition 1915 |
リズデール卿肖像 |
28歳の時のリーズデール卿/ミットフォード肖像 |
表紙 リーズデール卿の訃報記事が添付されている |
リーズデール卿の孫娘ユニティー ヒットラーの信奉者でナチスドイツに移住 彼女の服毒事件の記事 |
ミットフォード家の祖先 フランク王国シャルルマーニュ大帝肖像 |
Old Japanの挿絵 |
邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」長岡祥三訳 |
3)A Tragedy of Stones and Other Papers 1912
Lord Redesdale著
リーズデール卿のエッセイ/講演集。10編のうち5編が日本関係の講演集でロンドンのジャパンソサエティーでの講演や彼が創設に関わった学校での講演が採録されている。先述の通り、ガーター勲章ミッションで40年ぶりに日本を訪問した時の印象を語った講演記録は貴重な資料である。ちなみにこの書籍には蔵書票があり、第5代ローズベリー伯爵、ビクトリア女王時代のイギリス首相アーチボルト・プリムローズの蔵書であったことが判っている。
A Tale of Old and New Japan ガーター勲章ミッションで40年ぶりに再来日した時の印象
Three hundred Years Ago ウィリアム・アダムスの話
Fudalism in Japan 日本の封建制について
A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part 1 鎌倉/箱根への紀行文
A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part2
「A Tragedy of Stones and Other Papers」1912 |
蔵書票には「Earl of Rosebery Archbald Phillip」とある 第5代ローズベリー伯爵、 前英国首相アーチボルト・フィリップ・プリムローズ (自由党、在任期間1894−1895) の蔵書であったことがわかる
|
「A Tale of Old and New Japan」1906年ロンドンのジャパン・ソサエティーでの講演 |
3)「A Diplomat in Japan」 First Edition 1921
Ernest M. Satow:アーネスト・メイソン・サトウ著
邦訳版「一外交官の見た明治維新」 坂田精一訳 岩波文庫
日本では幕末維新史に関する有名な著作であるが、詳細は以前のブログで紹介したので、ここではあくまでもミットフォード著作のカウンターパートということで取り上げておきたい。巻頭でサトウはミットフォードに言及している他、本文中では度々ミットフォードの名前が登場する。先述のようにミットフォードも、彼の回顧録の中で度々サトウについて言及している。二人の外交官の体験に基づく両著を併せて読むことで、あの時代が万華鏡のように映し出されるであろう。
德川の葵の紋 |